過去の説教

イエスへの証し

降誕後第2主日礼拝

説教題 「イエスへの証し」

聖書 イザヤ書58章9~11節 ヨハネの手紙一5章 6~12節

岸 敬雄伝道師

  明けましておめでとうございます。

 本日は顕現日主日礼拝として、礼拝を捧げています。顕現日は1月6日に当たります。顕現とは、はっきりと姿を現す。はっきりした形で現れることを意味します。そして、顕現日は、顕現祭とか公現祭とか栄光祭などと言う言い方もあるようです。東方の博士たちが救い主を探し求め、イエス様のもとを訪れて、没薬、乳香、黄金を献げたとされる日です。ドイツなどでは、博士たちは王であったと言う言い伝えなどもなされています。それはともかくとして、イエス様が異邦人にはっきりと姿をあらわされて、異邦人に救いが表されたことを祝う祭日とされています。その1月6日に近い主日として、本日顕現日を祝う主日礼拝となります。

 顕現日は異邦人にまで救いが伝えられたのと共に、異邦人であった博士たちがイエス様を救い主として認め、その救い主としての証を確かにした日とも言えます。言い換えますと、イエス様に対する証しを異邦人が持った、初めての出来事をお祝いしていることに成ります。ほとんどが異邦人であったはずの現在教会につとっでいる方々にとっては、私も含めて大変喜ばしい出来事が起こったことの記念だと言うことが出来るのではないでしょうか。

 本日の聖書箇所については、ヨハネの手紙一の最後の部分にあたり、世に打ち勝つのが誰か、「それはイエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」と言っています。その主イエス・キリストに対する証しとして語られたのが本日の聖書箇所の場面です。しかし、ヨハネの手紙に書かれているこの部分は、私たちにとっては理解し辛い書き方がされているのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストを証しする者の中心となっているものについて語ろうとしているのは確かのことです。

 そして、大切なことは、イエス様が、私たちが今生活しているこの歴史の中にお生まれ下さった事であり、私たちの模範となるように罪もないのに、悔い改めのための洗礼を受けてくださった事であり、そして十字架の上で血を流してくださった事であると言っているのです。では、その様なことについて聖書では、どの様に語られているかを順番に少し見て行きたいと思います。

 「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。」と言い、水だけではなく、水と血によって来られたと再確認しています。イエス・キリストは、水すなわち洗礼をお受けに成り、十字架の上で血を流された方であると言うのです。そして、イエス様のことは、“霊”すなわち聖霊が洗礼と十字架を証しするのであると言うのです。

 イエス様が洗礼を受けられた後に、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とイエス様が天父の愛する子であり、天父のイエスさまを承認する声があり、イエス様が天父なる神の独り子であり、天父の心に適う者、天父の思いを実行される方である、それは、私たちの救い主として遣わされたものである。との天父ご自身の証しの言葉が聞こえた時、それを示すように天より聖霊が鳩のように下ってきたことを想起しているのです。イエス様の公生涯が示される、最初の出来事である洗礼の時に、聖霊は姿を現しているのです。

 そして、血とはイエス様が十字架上で私たちの罪の贖いのために血を流されたことを想起しているものであると考えられるのです。そして、「証しするのは三者で」とあるのは、イエス様の生涯で起こった出来で、始めに、イエス様が人となって肉を取って生まれて下さりこの現世においでくださったときから、聖霊なる神は働いておられ、その後、洗礼を受けられ、十字架上において私たちの罪のために血を流されたのが三者であり、さらに、その後の復活については、この手紙全体を通して言及しているのです。

 神であられるイエス様が、私たちの現実の歴史の中へと出現されたことであり、その目的は私たちの救いのためなのです。その救いのために、本来罪の無いイエス様が、罪の赦しの洗礼者ヨハネの洗礼を受けられたのです。それは全ての正しいことを行うためであり、私たちに模範を示す行為でありました。その上で、十字架で血を流され、私たちの罪の赦しを表しているのです。

 そして、その証しする三者は一致しているものであり、イエス・キリストを信じる信仰を信ずるに値するものにしていると言うのです。それはまさに救い主としての働きを証しているのであり、私たちの救いのかなめです。

 イエス様の御生涯は一貫しているのです。それは聖霊により導かれ、証しされているものであり、私たちの模範となるものであり、私たち自身では決して行うことができないものなのです。私たちが人の証しを、受け入れるならば、神の証はさらにまさっていると言うのです。私たちは人によって御子についての証しを伝えれ、それを信じるようになったとするならば、神の証は人の証よりまさっていると言うのです。私たち自身の内にある証し以上の証を神様は示してくださると言うのです。

 その神様が示してくださる証しとは、「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」神様の証とは私たちに対して永遠の命を与えられた事だと言うのです。私たちは、創造された時点において永遠の命を与えられていたにもかかわらず、神様に従うことが出来ずに死ぬものとなってしまいました。その様な人間に対して、御子はご自分の命を十字架の上でお捨てに成り、その後に復活させられることによって、私たちに対しても永遠の命の希望を与えて下さったのです。だからこそ、永遠の命のは、御子の中にあるのです。

 そして、この命は御子を信じる者の中にあるのであり、信じないものには与えられていないと言うのです。私たちにも、多くの証しが与えられました。御子が誕生した時に、イエス様を訪れた羊飼いのように人々から罪人のように思われていた、人々から一番底辺にいるような人々の証しから、王とも伝えられている様な博士たち、当時で言えば最上級に属する人たちまでが証している証し。更にいうなら、天父なる神様自身が証され聖霊がその証しを示してくださっている証しを私たちも内に与えられているのです。聖霊によって。

 私たちが内に与えられている証しである、主イエス・キリストが、全人類の救い主であると共に私たち個人一人一人の救い主で恵みに感謝しつつ、その証しに寄り頼んで今年一年も歩んでいきたいと願うものであります。

 

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