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シメオンの祝福

説教{シメオンの祝福」

聖書 詩編2編10~12節 ルカによる福音書2章25~38節

岸 敬雄伝道師

 

 本日のシメオンによって行われた祝福は、イエス様がお生まれに成って、エルサレムに連れて行かれ、神殿にいって聖別される時に行われた祝福です。

 イスラエルの人にとっては、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と律法で規定されていました。出エジプトの過ぎ越しの出来事で、エジプトで初めて生まれた男の子が皆死んだ時、イスラエルの子どもたちだけ過ぎ去ったて難を逃れ死ぬ事が無かった、そのことに由来して、初めて生まれた男の子は神様に捧げられなければ成らないと定められたのでした。

 その記述は、出エジプト記や、レビ記、民数記に書かれていますが、レビ記12章には「雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として」と捧げるいけにえが書かれています。

 それに手が届かない時には、「二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」と書かれています。

 本日読まれました箇所の前の部分で、イエス様の家族の目的が、いけにえに山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため、といわれているので、イエス様の家族はお羊を捧げほどまでは裕福ではなかったことがうかがえます。

 それでも、イエス様の家族は律法をしっかりと守る信仰深い正しい人であることが、この部分には映し出されていると読まれてきました。

 しかし、山鳩一つがいか、家鳩と言うのは民数記6章に書かれている神にささげられた主に献身しているナジル人として捧げる捧げもののことを意識してい、イエス様が特別に神様に捧げられる特別な人であることを示しているとも考える人たちもいました。

 そして、イエス様の家族が神殿の境内入って行った時、シメオンとういう人がイエス様を見つけて祝福したのです。

 シメオンと言う人は、エルサレムにいて、正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっている様な人だったと聖書には書かれています。

  そして、シメオンは主から特別な約束を受けていたのです。その約束とは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、」とのお告げを聖霊から受けていたのでした。

 そして、この決して裕福なわけではなく、取り立てて人の目を引く家族ではなかったはずのイエス様の家族と出会って、シメオンは幼子であるイエス様を腕に抱きあげて、神様をたたえて「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」言ったのでした。

 お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます、とは、どこかへ行くことを許されると言うのではなく、この世から安らかに去る、すなわち、安らかに死ぬことが出来ると言うのです。

 なぜそのようなことが出来るのか。それは、シメオンがこの世に残っていた目的である「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と言うのです。そしは、主による救い、全ての人々の救い主を目の当たりにすることが出来て、自分のすべきことがすべて満たされたからだと言うのです。

 外見は、どこにでもいる子どもと変わりなく見えたであろうイエス様が、自分たちの救いであると言う事は、まさに聖霊によって知ることが出来たのでした。

 それは、さらに自分たちのみの救いではなく、神様が、万民のために整えてくださった救いであり、異邦人までも照らす啓示の光であり、あなたの民イスラエルの誉れだというのです。異邦人も含めた全人類の救いであると言っているのです。

 そして、今自分たちが育てている幼子が神様から与えられた救いであると言われて驚いている、父と母にたいして、幼子についても祝福をしたのでした。しかし、その言葉は祝福なのかどうかは一見するとわかる辛い内容で、シメオンはイエス様を連れてきたヨセフとマリアに向かって祝福し、母親のマリアに言ったのでした。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」とイエス様の波乱の人生を預言するのです。

 それと共に母となるマリアに対して、あなた自身も剣で心を刺し貫かれます、と一見不気味にも思える預言がなされるのです。それはなぜかと言えば、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」というのです。

 多くの人々が神様に従い、イエス様を救い主として受け入れはしますが、全ての人がイエス様を受け入れるわけではないことを表しています。

 そして、母であるマリアもイエス様が十字架にお架かりになる苦しみを見ることとなるのです。しかし、それはすべて神様の救いのわざの中に一部だと言うのです。

 そして、イエス様のことについての証人としてもう一人アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいたのです。彼女も、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 突然のように、最後にこのアンナと言う女預言者が登場してきています。律法では、二人又は三人の証言によって物事は確定される、と定められていました。そこでもう一人の証人としてアンナは洗われたように思われます。

 旧約聖書にはモーセとアロンの姉であるミリヤムやデボラ、フルダ、など何人か女預言者と呼ばれている人は出てきますが、新約聖書では女預言が登場してくるのは、箇所だけです。その様な意味でも時べつな意味を持って登場してきたことがうかがえるのです。

 彼女の担う働きは、この先に現われる、洗礼者ヨハネの様に、イエス様の先触れとして救いを前もって人々に伝えに行くと言う役割を持たされているのです。

 私たちの元にも与えられた、この救いの訪れの良き知らせを、この女預言者のように、私たちも人々へと伝え広めて行きたいと願うものであります。

 そして、私たちにイエス様から与えられた恵みに感謝しつつ日々歩んでいきたいと願うのです。

 

 

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