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2020年クルスマスイブ礼拝説教「天に栄光、地に平和」

説教「天に栄光、地に平和」

聖書 イザヤ書 11章1~10節 ルカによる福音書 2章1~15節

岸 敬雄伝道師

 本日はクリスマスイブ礼拝として、イエス様の誕生の次第をルカによる福音書より聞いていきたいと思います。

イエス様が地上に来られる時に、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出ていたのでした。これは税収入を安定させるために行われた人口調査だったとの説もあります。

 この勅令に従うために 人々は皆、登録するためにおのおの自分の出身地、つまり、自分とその家族が属している種族がもともと住んでいた町へと旅立ったのでした。

  イエス様の地上で父親と思われていたヨセフも、ダビデの家に属して、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行ったのでした。

 ダビデの家に属すると言うことはユダ族に属しているのであり、ダビデの王家の血統であったとと言うことは、それと共に本来王に成ってもおかしくない家系であったことを示しています。

 ヨセフは、この登録するために出身地への旅をしている時に、身ごもっていたいいなずけのマリアも一緒に、登録するために旅に出て行ったのでした。

 当時の旅は、ほとんどが徒歩でしたので、産みつきが近づいていたマリアにとっては辛い旅であったに違いありません。

 そんな辛い旅をして、やっとの思いで着いたベツレヘムの町では、皆が自分の出身の町へと旅をしていたので、旅人がいっぱい居て宿屋には泊まる部屋が無かったのです。そして、二人が泊まれる場所としては、客間ではなく、馬屋しかなかったのでした。

 そんな辛い旅をしてきたマリアは、ベツレヘムに居る内に、月が満ちて初めての子、すなわちイエス様を産むこととなったのでした。そして、生まれたばかりのイエス様を布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでした。

 確かに、日本でも昔の農家などでは、馬は家族の一員のように扱われて、同じ屋根の下の土間で、飼われていたこともありました。旧約聖書でも、馬は特別な力を持った動物だと考えられていました。

 しかし、やはり馬小屋は、人が住むべき場所とはいいがたいのは確かでありましょう。私たちの救い主がお生まれになるには、そんな、私たちから見てふさわしい場所とは思われない場所、すなわち、私たちの為に一番底辺の場所でお生まれ下さったのです。

 ダビデの王家の血筋を引くヨセフが父親と思われていたのですから、イエス様も世が世であれば王となるべき者として扱かわれてもおかしくなかったのです。しかし、私たちの本当の王であられるイエス様は、私たちの一番底辺に生まれて下さったのです。そして、暖かく柔らかいベッドではなく、馬の飼い葉おけに寝かされていたのです。そんなイエス様に対して、初めて訪れたのが、野に出て羊の番をしていた羊飼いたちだったのです。

 羊飼いたちは、生き物である羊を世話しなければ成らないので、羊飼いたちは、週に一度の安息日も守ることが出来なかったために、律法を守れない罪人のように見られていたのでした。

 その様な人たちの所に主の天使たちが、突然に近づいてきて主の栄光で、回りを照らしたのでした。羊飼いたちは、非常に恐れたのでした。それでも、天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と言うのを聞き、その上で、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と言うのを聞いたのでした。イエス様がお生まれになった時に初めてそのよき知らせを知らされたのは、人々から罪人のように見られ、蔑まれていた羊飼いたちだったのです。

 

 しかし、羊飼いたちは、この様に天使の言葉と神を賛美する声を聴いて、天使たちが離れて天に去ったときに、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合ったのでした。そして、天使たちが示したよき知らせを確認するためにすぐに行動に移したのでした。

 羊飼いたちは、自分たちにとって、何よりも大切な羊を野に残してまで、天使に言われたことを信じて、自分たちの救い主であるイエス様にお会いするために出かけて行ったのでした。

 羊飼いたちは、へブライ人への手紙11章1節に「 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と言われている通りに、自分たちの信仰を表すために、救い主がお生まれになったことを確認しに出かけて行ったのです。羊飼いたちは、人々から安息日も守れない信仰の薄い人のように見られていたとしても、神様の眼から見れば、確かな信仰をもって、実行力があり、そして、神様からの恵みを受けるのに相応しい人々であると認められていたのです。

 私たちも羊飼いの様に人の眼からではなく、神様から真に信仰のあるものと認められて、信仰を確かにして、実践し、主イエス・キリストに従って歩み続けて行きたいものであります。

 

 

 

 

 

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