説教「善き知らせ」
聖書 詩編130編5~8節 ルカによる福音書1章26~38節
岸 敬雄伝道師
クリスマスおめでとうございます。本日はクルスマス合同主日礼拝です。クルスマスをお祝いして教会学校のモナさんと一緒の礼拝を捧げることとなっています。
教会にとっては、クリスマスはとても華やかな大きな祭りです。なぜみんなクルスマスだとうれしい気持ちに成るのでしょうか。それは、私たちの救い主であるイエス様が、この地上に私たちと同じ肉体をもって、おいで下さった事をお祝いする祭りだからです。
イエス様は神様ですが、そんな神様が私たちのために、私たちと同じ人間の体を取ってこの地上においで下さったのです。そして、私たちと同じように苦しみを味わって、私たちの罪を償って下さるために十字架にお架かれに成って下さったのです。そして、私たちの罪を取ってくださったのです。すごい事ですよね。
本日のルカによる福音書は、イエス様のお母さんとなる、おとめマリアの所に天使ガブリエルが、善き報せを告げにきた場面です。
先週の説教に出てきた後に洗礼者ヨハネと呼ばれる人の父であるザカリアと言う人がいました。の先週の話しの中で、このザカリアと言う人の所にも天使が善き知らせを告げに来ていました。しかし、マリアの所に天使が現れたのとは、同じところもありましたが違う部分もあったので、少し比べてみたいと思います
ザカリアは、神殿の中で主の天使から御告げを受けたのでした。マリアは、ガリラヤの町で、すなわちマリアが住んでいた地域、もっと言うならば、イエス様が宣教を始められた地域で天使と出会ったと示されています。
そして、ザカリアに対して現れたの天使は、名前は主の天使と言われているだけでしたが、マリアに現われた天使の対しては、天使ガブリエルとはっきりと天使の名前まで出てきます。
そして時間的には、ザカリアの妻のエリザベトが妊娠して6か月に成っていると天使ガブリエルが言っていることから、ザカリアに天使が現れてから、マリアにガブリエルが訪れるまでの間には、おおよそ半年前後の違いがあったと思われます。
そして、ザカリアのもとに天使が訪れた時に子どもが与えられると聞いても、自分たちが年を取っていることなどから信じることが出来ず、口がきけなくなると言うもう一つのしるしが示される事に成ったのでした。
それに対して、マリアは、婚約はしていたが、まだ結婚はしておらず、男の子を生むと言われても、とても考えられない状況にありましたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って御告げを素直に信じて受け入れました。
ザカリアは年長であり、神の前に正しい人であったと言われている人ですが、それでも、この世の常識に囚われて神様の言葉を受け入れられなかったのです。それに対して、マリアは、まだ年若い少女であったにもかかわらず、神様の御言葉を素直に聞き入れることが出来る人物だったのです。
まさに、マリアは神に選ばれたおとめであったと言うことが出来ます。そんなマリアに対して、天使ガブリエルは「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と言うのです。
天使の言ったイエスと言う名前は、決して特別な名前ではありませんでした。旧約聖書では、モーセの後継者であったヨシュアと言う人がいましたが、このヨシュアと言う名前をギリシア語読みにすると、イエスと言う名前に成ります。
ただ、これから生まれてくるイエスは、「偉大な人ととなり、いと高き方の子と言われる」と言うのです。もちろんマリア自身が、いと高き方でなかったことは自分もわかっていたはずでしょうから、これから生まれてくるイエスがいと高き方の子、そなわち神様の子どもであると言われると言うのです。そして偉大な人となると言うのです。天使はさらに続けて、「神である主は彼に父ダビデの王座を下さる」と言うのです。
これから生まれてくるイエスは、イスラエルを統一した王であり、理想の王と考えられていたダビデの王座を神様から受けるものとなると言うのです。そして、「永遠にヤコブの家を治めて支配する」事に成ると言うのです。
マリア自身が天使に告げられた予言について、すべてのことについては理解していなかったことが、これから先の聖書の記述でもわかりますが、それでも、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるのでした。
自分で全て理解しきれない事であったとしても、善いことと思えるならば、主に従い続ける。このことこそが信仰を表しています。そして、私たちの模範となるべき姿なのでありましょう。
私たちは、私たちの救い主である主イエス・キリストの、この地上への誕生をお祝いするクリスマスの礼拝を捧げている時に、主であるイエス・キリストの十字架に掛ってまで私たちの罪を贖い、愛し続けてくださった行為と共に、人として、自分の理解を越えた神様の思いを受け入れた、少女であったマリアの信仰をも思い出し、私たちの信仰を見直す機会とすべきなのではないでしょうか。
主イエス・キリストによって示された神様の愛に応えてこれからも歩み続けて行ければと願うのです。