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「敵を愛し」

説教「敵を愛し」

 岸 敬雄伝道師

聖書 詩編42編1~6節 マタイによる福音書5章38~48節

 本日は特別な召天者記念礼拝を捧げています。例年ですと聖餐式があり、礼拝後には普段お会いできないご遺族の方々と共に愛餐の時間を持ちますが、本日は新型コロナの蔓延のためどちらも持つことが出来ません。

 私たちは、今までにない新型コロナウイルスの蔓延と言う苦難の中で過ごしていますが、本日読まれました詩編42編の作者は、苦難の中にあって、この詩を読んでいます。 以前は水が流れていた涸れた谷に鹿が水を求めるように彼のは神様を求めるのです。なぜそのように求めているかと言えば、昼も夜も人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と言って責め立てているのです。この人と言うのは自分の同じ民族の人ではなく、神を知らない異邦人に成ります。その様な異邦人から日々自分の神が何処にいるのか、神からの救いはないのかと責められていると言うのです。

 しかし、 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め、というのです。そして、わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」というのです。

 どの様な苦難の中においても、神を待ち望み、神様こそ私たちの救いであると信仰を告白し、神に従って待ち望んでいる強い決心を言い表しているのです。

 イエス様は、本日の聖書の箇所で、あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている、と言われるのです。当時の律法において知られている掟ですが、この掟は復讐を認めているように思えます。しかし、当時の律法から言えば、目には目、歯には歯と言う様に、対等の対価によって償う様にと言っているのであり。過剰の報復を禁止した律法だったのです。

 しかし、イエス様は、この律法以上に相手のことを思いやり、相手に歯向かわない様にと教えています。右の頬を打たれたならば、左の頬を打たせるようにと言われるのです。

 そして、下着を取ろうとする者には上着も与えよと言うのです。下着より上着の方が取り易くて、上着を求めないで下着だけ求めると言うのは少し不思議な気がしますが、上着は、寝具としても使われていたようで下着より価値があるものだったのです。下着のような価値の低いものを求められたとしても、より高価な上着まで与えるようにと言われているのです。

 そして、だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい、と言われるのです。

 まさに相手が求めている以上のことを行う様に、本来求められた距離の二倍まででも付き合っていく様にと言われているのです。

 さらに、求める者には与えなさい。そして、あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない、と言われるのです。

 イエス様のご生涯を見て行く時に、まさにそのような事を実践されたご生涯だったのではないでしょうか。

 その上で、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とまで言われるのです。

 なぜ、それまでのことを行わなければ成らないかと言えば、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言われるのです。そして、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者と」なる為だと言われるのです。

 しかし、私たちは天父が完全であられるように私たちも完全なものとなることが出来るのでありましょうか。もちろん、イエス様のみ言葉でありますから、最後には天父のように完全になることが出来る希望を持つ事も出来るのでありましょう。しかし、現在の自分たちの姿はどうでしょうか。天父のように完全な姿をしているでしょうか。完全だとは言えなくとも、自分が完全に向けて確実に歩み続けていると言える方はどれほどいらっしゃるでしょうか。

 それでも、イエス様は、敵おも愛するようにと言われ、私たちはそれが行うように務めるのです。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りるようにと言われ、祈るように努めるのです。借りる人に対して拒んではいけないといわれ、その様に務めるのです。そして、敵をも愛するようにつとめるのです。勿論、完璧にできるはずがないことを知っていたとしてもです。

 それは、天の父の子となるためであり、父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、その広いお心を私たちも少しでも実践する為なのです。

 見方を変えてみれば、イエス様の言われていることを完全には実践できない、言い換えれば不十分な私たちは、悪人であるとも、言えるのではないでしょうか。完全なものとなるようにと求められている私たちが、完全となれていないのは、そこには神様に従えない、神様の思いを外してしまう罪が存在しているのではないでしょうか。そんな罪人である私たちに対しての救いの言葉でもあるのではないでしょうか。

 あるキリスト教の指導者が言っていたことの中で、「私たちは日々聖化されて行かなければならない」と言うのがありました。聖化されると言うのを言い換えるならば、私たちは日々清められなければならないと言うのです。

それは、日々イエス様にふさわしいものと変えられて行かなければならないと言う事でもありましょう。変えられる為には、祈りが必要ですし、悔い改めることも大切な要素となります。それは、週に何日かではなく毎日、毎日イエス様に従って行く毎日努力して行かなければならない事だと言うのです。

 それは苦難の道ではなく、幸福な道なのです。なぜでしょうか。なぜなら、それはイエス様に近づく道であり、イエス様が言われているように、完全なものとなる為の道だからです。自分の罪を認め、悔い改めて主に従う道を歩み続けて行くのです。

 この歩みは、この現世のみで終わるわけではないのかもしれません。なぜなら、私たちはこの現世のみでは完全に至ることは困難なように思われるからです。

 本日は私たちの信仰の諸先輩たちのことを思って礼拝を捧げています。もしかしたら、信仰の先輩たちと天上と地上とに離れているとしても、今は亡き信仰の先輩たちは天の教会において私たちと共にイエス様に礼拝を捧げ、私たちと同じように、完全なものとなる為の道を歩んでくださっているのかもしれません。私たちは地上において今は亡き諸先輩の善き行いを見習って、その背中を追って歩んで行きたいと願うのです。

 

 

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