過去の説教

針の穴を通る方が

説教「針の穴を通る方が」

                                      

                  聖書 詩編119編129節~136節  マルコによる福音書 10章17節~27節

 

 イエス様がお出かけに成ろうとしていた時に一人の人がやってきました。そしてイエス様に対して、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねたのでした。

  それに対して イエス様は「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善いものはだれもいない。」と言われたのでした。

 善い先生と言うのは確かにイエス様に対しては当たっていました。そして、イエス様は善いお方は神様以外いない、と言われたのですが、イエス様が神様であることを理解していれば、確かに善い先生と言うことも正しいことになります。ただ、本日訪ねてきた人は、そこまでは理解して、“善い先生”と言って声をかけた様子はうかがえません。

イエス様は、善い先生と呼びかけられたことに答えてから、さらに続けて『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われたのでした。この様な基本的な戒めをあなたは知っているはずだ。だから、この様な教えを守るようにとの意味を込めて言われたのです。これが、永遠の命を受け継ぐには必要だと言われたのです。 するとイエス様に尋ねた人は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言ったのでした。

 これまでの会話の中で、イエス様が神様であると認めているかどうかはともかくとして、訪ねた人の答えには何ら間違いは見当たりません。そして、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えた人に対して、イエス様は彼を見つめて、そして慈しんで言われているのです。決して次に言われたお言葉も、この質問した人を困らそうとしているのではないのです。

 イエス様は、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのでした。

 それに対して、その言葉を聞いて訪ねてきた人は、気を落とし、悲しみながら立ち去ったのでした。たくさんの財産を持っていたからである、というのです。

 財産を沢山持っている人は、財産に心が言っていて、イエス様に従うことが難しいのです。

 イエス様は財産を売って、貧しい人に施しをしたのちの自分に従ってくるようにと言われたのです。イエス様に従う準備として財産を売って貧しい人々に施しをするようにと言われているのです。財産に心がある人はそれが出来なかったのです。

 イエス様は、弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言われたのでした。

 そして、続けて「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と弟子たちに言われたのでした。

イエス様の時代の譬え話しとして、ラクダが針の穴を通ると言う表現があったようです。ラクダは皆さんもご存じの通り、人を一人、あるいは二人載せて、砂漠などを旅する事も出来る家畜ですが、子どもの頃、実際にラクダを見て、その大きさが大きくて驚いた記憶が私にはあります。

 その様な大きなラクダが、小さな針の穴を通ると言うのです。到底無理な話のように考えられます。だからこそ、弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのでした。

 イエスは、そのように言い合っている弟子たちを見つめて、言われたのでした。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われるのです。

 私たち人間には限界がありますが、神様にはできない事などないのです。

 何でも出来る神様だからこそ、私たちを教会へと導いて下さったのです。そして救いの道を示してくださったのです。

 しかし、神様であるイエス様から見てもラクダが針の穴を通るより難しいことがあるのです。

 イエス様の言う事をきかない人を救うことは、ラクダが針の穴を通ることよりも難しい事なのです。

 私たちは、幸いにも神様がお呼びくださった声に対して、自分で意識したかどうかは分かりませんが、お答えすることが出来て、今教会へと来ているのです。

 私たちは、神様の恵みを忘れることなく、イエス様が与えて下さった戒めを守りつつ、イエス様に従って歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

アーカイブ