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人の子が現れる日

説教「人の子が現れる日」

 

                 聖 書 詩編90編13~15節 ルカによる福音書17章20~24節

                                           岸 敬雄伝道師

 イエスがこの地上においでになった時には、ユダヤの人々はローマの支配下にあり、ローマから任命された総督のもとに統治されて虐げられていた状態でした。言い換えれば異邦人の民に支配されていて苦しみの中にあったのです。その様な苦難の中から自分たちを救い出してくれる救い主の出現を待ちわびていたのでした。

 実は、ファリサイ派の人々も神の国が来ること、言い換えるならば、救い主が現れ、自分たちの救いが達成する日を期待して待ち望んでいたのです。だからこそ、彼らも、色々な研究も行っていたのでした。そして、この度は、イエス様に対して「神の国、すなわち自分たちを救いへと導き神のご支配はいつ来るのか」と尋ねたのでした。

 それに対してイエス様の答えは、私たちにも理解し辛いものでした。イエス様は、始めに「神の国は、見える形では来ない。」と言われるのです。

 神の国とは、アメリカやイギリス、とか日本というに、当時としては支配者の国であるローマのように、物理的な形で分かるような国として訪れるものではないと言われるのです。

 神の国は、言い換えれば神様のご支配であり、救い主が来られこの地上をご支配される、再降臨後に完成した形を見せるものなのです。

 人間が見ることが、作ることが出来るようなものではないと言われるのです。そして、その出来事が起こる時に関しては、人間が知ることはできない。なぜなら、イエス様の再降臨の時を正確に知っておられるのは、天父なる神様以外おられないからです。

さらに、イエス様は続けて「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われるのです。

 私たちが見渡して『ここにある』『あそこにある』と言えるものではないと言われるのです。それは、眼に見える形では来ないと言われていることと同じような意味を表しています。しかし、それと同時に、神の国は、あなたがたの間にある、と言われるのです。

 なぜ、『ここにある』『あそこにある』と言えないものでありながら、「あなたがたの間にある」ものなのでしょうか。

 それは、救い主であるイエス様がこの地上に来られたことによって、神の国の到来、すなわち神様のご支配の到来は既に始まっているからにほかならないからです。神の国は、イエス様のお働きによって、既に神の国は私たちの間に現れているのです。ですから、神の国は「あなたがたの間にある」と言われているのです。

 そして、このイエス様の働きは、もっとはっきり言えば、すべてに人々に救いをもたらす働きは、人の居場所や時間に限定されるものではないのです。

 ですから、イエス様がこの地上においでになる前に生きていたモーセやアブラハムの様な人々から現在福音を聞いている私たちまで、そして私たちの子孫に至るまで、全てに人類、もっと言うならば神様に創造された全てのものの救いにイエス様は関わって下さり、救い主となって下さっているのです。

 そして、イエス様が私たち自身の救い主であると言う事を実感できるのは、イエス様が栄光を携えて再び地上へと訪れる時に備えて、イエス様の教えを私たち自身が、自分たちの身をもって実行することによって、神様のご支配、神様の国を実感できるのです。

 そして聖書では次に弟子たちの問答へと移るのです。そこではイエス様が再びこの地上に来られる再臨の時のことが述べられています。

 まず初めに、イエス様が再び地上に来られる時の前には、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」と弟子たちに取っての苦難に対する予言を述べられています。一日だけでもと言う言い方は、いつイエス様が戻って来られるのか、その日時については誰も知ることが出来ないことを、一日だけでもと言っておられるのです。そして、苦難の時には、イエス様が裁きの座についてご支配されることを心から待ち望むだろうと言われるのです。

 困難が待ち受けているからこそ、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うことにごまかされてはいけないと言われるのです。人々が『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と言う様に、自分の都合の良い救い主を見つけ出そうとして誘惑するのです。そのような、誘惑に陥らない様にと戒めておられるのです。

 さらに、自分のために都合の良い救い主を求めて、見つけたと言っている人に対して、その人を確認するために出て行ったり、その様な人の後を追いかけて行ってはいけないと言うのです。救い主であるイエス様の再臨は、天父なる神様以外お知りに成らないのに加えて、イエス様ご自身の約束にのみが神の国の到来の根拠としての出来事なのです。

 そして、イエス様が再びこの地上においでになる再降臨の時には、あらゆる幻想的な事から解き放されてはっきりとしたものとして現れるのです。今まで人々を惑わしていたものや苦難から解き放たれることが出来るのです。

 そして、人の子が現れるのは、稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように現れる、と言われるのです。

その様にはっきりと表れると言われるのです。

 では、私たちは人の子が現れる時をどの様に迎えればよいのでしょうか。 困難が待ち受けているからこそ、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うことにごまかされずに、イエス様をお迎えするために備える為には、18章17節でイエス様が子どもたちを祝福した時に言われたように、神の国は、子どもの様に受け入れなければ成らないのです。素直に、イエス様を受け入れて、目の前の困難にふるまわされずにイエス様を受け入れつづけるのです。その時までに私たちは、イエス様に従い続けで準備を整え続ける必要があるのです。

 本日は、終末前々主日礼拝と言う様に、終末のことを思い、イエス様の誕生日をお祝いするクリスマスを迎える備えの時であるアドベントまで、再臨のことを思う時期として過ごしています。イエス様は一度クリスマスの出来事で、この地上においでくださいましたが、それと同時に私たちは再びイエス様がこの地上においでくださることを願って日々を過ごす者なのです。イエス様が再びこの地上に来られる時、人の子が現れる日こそが、私たちの救いが完成される時なのですから。

 

 

 

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