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神学校日礼拝 「二人は」

説教 「二人は」

              聖書 詩編119編 113~120節 マルコによる福音書 10章2~9節

                                           岸 敬雄伝道師

 

 イエス様がユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれ、何時ものように教え始めると、イエス様を試そうとしてファリサイ派の人々が質問して来たのでした。

 その時の質問とは、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言うようなものでした。この質問がなぜイエス様を試すことになるのでしょうか。

 それは、イエス様がその当時に信じられていた律法とは異なる考え方を持っていると質問してきた人々は考えていたからでした。

 イエス様は、自分に質問をしてきた人たちがイエス様のことを試そうとしていることを見向かれていたので、逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されたのでした。

 その答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言うものでした。この答えのもととなっているのは、申命記24章1~4節にある戒めであり、

24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

 24:2 その女が家を出て行き、別の人の妻となり、

 24:3 次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、

 24:4 彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。

と書かれていることがもとになっています。

当時の答えとしても一般的に認められていた答えであると言っても良いのでありましょう。

 イエス様がお考えに成っていた通り、質問していた人たちはモーセがどの様に命じていたか知っていたのです。

 そのことを知っていて、あえてイエス様に尋ねたのです。それに対してイエス様は、質問してきたファリサイ派の人々の考えを見抜かれて、モーセが離縁状を書いて離縁することを許したのは、あなたたちの心が頑固なためだと言うのです。そして本来は、天地創造の初めから、すなわち創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれている通りに神は人を男と女とにお造りになった。と言われるのです。

 さらに、創世記2章27節で「 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と言うところから、この様に神様によって結ばれて一つのものとして結びつけられた二人を引き離すことはできないと言われるのです。

 それであるのに、人々が頑固であるから、言い換えるなら、かたくなで道理が分からないから、仕方なくモーセは本来の教えのレベルを引き下げて離縁状を出すことによって離婚することを認めたのだと言うのです。本来神が一つとされたものを人間が引き裂くことは良くないと言われているのです。

 夫婦と言う二人の繋がりは、神様が地上をお造りになった最初の時から、定められたものであり、創世記と言う聖書においても初めに当たる書において、人の成り立ちから説明されて書かれているものであると言われるのです。

 現在のモーセの教えより、より別の所に神様のご意思はあることを、イエス様は教えておられるのです。そして、イエス様が律法と違うことを教えていることの証拠をつかもうとして質問してきた人たちについて論破されたのでした。

 結婚と言う関係は神様によって定められた関係であり、非常に大切にされるべき関係であることを示されています。ですから、離婚は認めないと言われる方もおられます。そうなると逆に正式な結婚はせずに事実婚のままにしておく人が増えてしまったと言う国があるとの話を聞きこともあります。

 そのような事を考えて行くと、イエス様が言われた御言葉だからと言って、現在全ての人に当てはめても良いものなのかと考えなければならなくなります。

 世の中には、色々な理由によって離婚をされた方々もいらっしゃいます。その方々をイエス様の教えを守れていない人たちだと決めつけてしまうことが出来るでしょうか。

 それは正しい態度とは言えないのではないでしょうか。なぜなら、私たちは不完全なこの世に生きているのです。ある面から見ればモーセが律法を与えた時よりも人々は頑固になっているのではないでしょうか。

 そんな頑固な世の中に福音、神様の善き訪れを伝えて行くのです。本日は世の中に福音を伝える者たちを育てる役目を担っている神学校の事を覚えて礼拝を捧げる、神学校日礼拝ですが、神学校にも色々な経験を持った人々が集っていることを私自身が入学してみて初めて知ることが出来ました。

 私たちは世を裁くのではなく、世が少しでもイエス様の教えに近づいていて行くことが出来るように、イエス様の教えを広めて行くべきなのではないでしょうか。

 

 

 

 

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