過去の説教

「婦人よ」

説教 「婦人よ」

                                     岸 敬雄伝道師 

                   詩編138編 マタイによる福音書15章21~28節

 

 イエス様はゲネサイト、ガリラヤ湖畔の地方から、ティルスとシドンの地方のほうに行かれたのでした。シドンとは、聖書地図を見ていただくとわかりますが、地図上でもずいぶん隅の方に成ります。異邦人の地であると言いえます。

 さらに、マタイは、ここに出てくる女は、この地方で生まれたカナンの女と言うのです。カナンと言うのは旧約聖書の時代から出てくる有名な土地ですが、やはり、彼女が異邦人であることを示しています。

 そんな異邦人の女性が、イエス様がこの地方に来たと聞いて、イエス様の所に来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだのでした。

 イエス様が自分たちの主人であり、ダビデの子、すなわち王であることを認めて、自分のことを憐れんでほしいと言っているのです。そして、自分を憐れんで、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられているのを癒してほしいと言うのです。

 しかし、イエス様は何もお答えにならなかったのでした。確かに、イエス様はダビデの家系であり、ダビデに連なる王となるべきお方ではありましたが、この時点ではまだ、異邦人の主でもあるとまでは、公言されていなかったのです。それが、この会話でもはっきりわかるのではないでしょうか。

 イエス様ばかりではありません。イエス様についてきていた弟子たちまでも、イエス様に近寄って来てお願いしたのでした。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言うのです。弟子たちも決してこの女に対して、良い感情を持っていない様子を伺い見ることが出来ます。その様な中でも、このカナンの女は決してあきらめずに叫びながら付いて来たのです。

 この様に叫び続けている女に対して、イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」冷淡にも思えこの様な答えをしたのです。今は失われているとしても、イスラエルの家の羊の所にしか遣わされていないと言うのです。

 先ほども言いました通り、この女は異邦人であると見なされていたのです。だからイエス様は、自分はイスラエルの他には遣わされていないと言うのです。

それでもなお女は食い下がるのです。イエス様の前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と言ったのでした。イエス様以外に救いはないと確信していたのです。

それに対してもなおイエス様は、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と冷淡にお答えに成るのです。

女はイエス様の言われた言葉を否定しません。それどころか「主よ、ごもっともです。」とイエス様の言われたことがもっともであると肯定するのです。

しかし、その上で、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言って、自分の願いを伝え続けるのです。

その言葉を聞いて、イエス様はやっと、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われたのです。そして、そのとき、娘の病気はいやされたのでした。

イエス様は、「婦人よ」と初めて呼びかけるのです。

イエス様は、このカナンの女を婦人と認めたのでした。この婦人とはどのような意味が込められていたのでしょうか。ここには強い信仰を示し続けたこのカナンの女に対するイエス様の敬意すら感じられます。

イエス様は、自分が初めに言われていた、「イスラエルの家の羊の所にしか遣わされていない」と言う事を曲げられたのでしょうか。

決してそうではないのではないでしょうか。逆に、カナンの女と呼ばれていた異邦人としてみなされていたこの婦人を、「イスラエルの家の失われた羊」と、その信仰で認められたのではないでしょうか。

イスラエルとは決して血統で決まるものではない。救いに入れられるものがイスラエルの民であるともいえるのではないでしょうか。

さらに、もう一つ考えたいことは、娘は癒されました。しかし、娘は何もしていません。娘が癒されたのは、その母の信仰が認められたからでした。私たちは、その様の事例を眼にする事はないでしょうか。他の人の信仰によって、神様から助けられるような経験を。

身近な所ですぐに思い当たるのは、幼児洗礼などではないでしょうか。幼児洗礼は、洗礼を受ける幼児の家族の信仰により、家族と教会が本人の口で信仰を告白できるその時まで信仰をはぐくみ育でて行くと神様と約束して洗礼を授けるのです。幼児洗礼を受けられた方の信仰をはぐくむ責任は家族以外に教会にもあるのです。

それ以外にも、私たちは私たちの知り合い、あるいは名前も顔も知らない人のために出も祈りを捧げて、執り成しを行っていることもあるのではないでしょうか。

 初めに全くお答えくださらなかったイエス様の態度の時も、そして、迷惑顔をしていた弟子たちの態度を取られても、それに、自分が求めていたのとは違うイエス様からの答えがあったとしても、このカナンの女はあきらめませんでした。そして、自分の願いと違うイエス様の答えを決して否定しませんでした。イエス様のご意見を聞いて受け入れながらも、自分の願いを告げ続けたのです。そのようなこの女の姿にイエス様は、この女の信仰を認められたのです。

 そして婦人よ、とイエス様は語りかけられたのです。

 私たちも同じような経験をする事があるのではないでしょうか。主へ願い求めたとしても主の答えが与えられない。主は黙して語られないのです。そしてやっと語られたと思った時には自分の思いとは別のものだった。その思いを主の思いとして受け入れざるおえ愛ことを知らされるのです。

 しかし、願い続けるのです。その時に信仰は認められ道は開かれるのではないでしょうか。その道がどの様なものであるか見通しが立たないとしても、それは私たちの思いで開かれた道ではなく主の思いで開かれた道なのですから。その様な事があることを、この物語は私たちに語りかけているのではないでしょうか。以前は異邦人のような者であった私たちに対しても。

 

 

 

 

アーカイブ