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「ラザロのよみがえり」

説教「ラザロのよみがえり」

 岸 敬雄伝道師

詩編125編3~5節 ヨハネによる福音書11章38~45節

 ラザロのよみがえりの話は、ヨハネによる福音書の11章1節から始まっています。

 イエス様が、ラザロが病気であると聞いた時から、「この病気は死で終わるものではない、そして、この病気の目的は何かと言えば、それは、「神の栄光のためである、」と言われるのです。そして、この出来事によって、神の子も栄光を受けることになるとも言うのです。

 この、ラザロの病気からの死、そして、よみがえりまでの一連の出来事は、始めから神が栄光を表し、そして御子が栄光を受ける為だとイエス様は言われているのです。

 他の見方からすると、ラザロの死は、イエス様の死と復活の予見させる、ラザロの死とよみがえりは、イエス様の復活をあらかじめ指し示しているものと考えることも出来るのではないでしょうか。

 もちろんラザロのよみがえりと、イエス様の復活とでは、大変大きな違いがあります。ラザロは、イエス様のように復活されたわけではなく、ふと飛び死んでしまう体に蘇生しただけだと言うことになります。イエス様は十字架上で命を落とされた後、3日後に栄光の体にて復活されましたが、ラザロは死んだ後の4日後に私たちと同じように死ぬ体によみがえったのです。

 人が心肺停止になった後に蘇生することは、現代でも聞く機会があります。この頃事故などのニュースを聞く時に心肺停止で発見され、その後病院で死亡が確認されたなどと言う言い方をよく聞くようになったと思いますが、その様な、普通に起こる可能性のある、生き返ると言う行為を排除するために、イエス様はラザロが完全に死んだことを示すため、墓に収められてから4日間もおいて、ラザロの家族のもとへと赴いたのでした。

 イエスは、墓に来られた時に再び心に憤りを覚えたと言われています。なぜ再びと言われているのでしょうか。それは、同じ11章の33節で、マルタとユダヤ人たちが一緒に泣いているのを見て心に憤りを覚えて、興奮してイエス様は涙を流されていたのでした。イエス様が感情を大きく動かされて涙を流すことは聖書の中で、この部位以外には見受けられません。それほどまでに稀な行動だったのです。

 そして、涙を流されているイエス様を見て、二つの意見を言っている人たちがいました。ある人たちはイエス様が「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言い、他方別の人々は「あの盲人の眼を開くことができたイエス様でもラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言ったのでした。イエス様に対しては、絶えず二つの見方があることを象徴しているようです。

 イエス様は涙を流された後に再び憤られて墓に来られたのでした。そして、墓をふさいでいた石を動かすようにと言われたのです。イエス様の当時の墓と言うのは山などの横穴を利用したものが多かったようです。ラザロの墓もそのような横穴で入口の蓋として、大きな石が入り口をふさいでいたのでした。

 イエス様の時は、婦人たちが香油を塗りに行こうとしたとき、誰がふたにしている石を動かしてくれるのかと心配していましたが、婦人たちが着く前に、すでに石は転がって横に置かれていたのでした。イエス様の復活には人の力は必要なかったように示されていますが、しかし、ラザロの場合は、ほかの人によってこの蓋となっている石は退けられる必要がありました。

 それも、ふたを退けることに対してラザロの姉妹であるマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言って、反対するのでした。するとイエス様は、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われたのです。

 イエス様がマルタたちの所につかれた時に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われていたのです。

 マルタはそれに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と言っていたのです。確かに、マルタは終わりに日に人々が復活する事や、主イエス・キリストが救い主であることを知っていたのです。理解していた以上に、知っていたのでありましょう。しかし、そのようなマルタであっても、全てを理解しきれていたわけではなかったのです。そして現実に目を囚われてしまったのです。

 現実に囚われてしまっていたマルタでしたが、イエス様から「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われて、すぐにイエス様の言いつけに従ったのでした。

 そして、アルタは人々に言って石を取りのけてもらうのです。すると、イエス様は、天を仰いで言われたのでした。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と言われたのです。

 ここでイエス様は、まず、ここで行われる奇跡は、天父なる神が、イエス様の願いを聞き入れて下さった事であり、イエス様はそのことに対して感謝をしたのでした。そして、このラザロがよみがえることは、イエス様ご自身の希望であり、周りの群衆のためであるというのです。なぜ群衆のために成るかと言えば、それは、神様が御子であるイエス様をお遣わしくださった事を群衆が信じることが出来るからだと言うのです。

 そして、イエス様は、墓の中にいるラザロに大声で呼びかけるのです。「ラザロ、出て来なさい」と。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来のでした。勿論出てきたのはラザロその人ですが、聖書ではそれがラザロであることより、イエス様の呼びかけで死んでいた人が生き返って出てきたことをはっきりと示そうとしているのです。

 そして、イエス様は、手と足を布で巻かれ、顔は覆いで包まれたたまま出て来たラザロを、イエス様は人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われたのでした。

 よみがえりらされたラザロ本人についての言及は、これ以上にはありません。まさに個人が問題なのではなく、神の栄光が見られ、御子であるイエス様が栄光を受けられることが大切な事であると言っているかのようであります。

 そして、イエスのなさったことを目この出来事を目撃したユダヤ人の多くは、イエス様を信じたのでした。しかし中にはイエス様がなさった事をファリサイ派の人々に告げ口をするために行った人たちもいたのです。

 世の中には同じことを見たからと言って、決して同じ反応を示すわけではないことをイエス様が涙を流された時と同様に、ラザロが墓から出てきた時も、同じように違う反応を示す人たちはいたのです。そのことを包み隠すことなく聖書は書き伝えているのです。それは、私たち自身の本性でありと言っても良いのかもしれません。

 信じる者と信じぬ者、詩編125編の作者が言っているように、「主に従う人に割り当てられた地に 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。

 私たちの心にも悪に手を伸ばすことのないように、良い人として、心のまっすぐな人を 幸せにしてください。

 よこしまな自分の道にそれて行く者を 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。私たちの心にも平和がありますように。」

 私たちは奇跡を見て信じるわけではありませんが、私たちに信仰が与えられた奇跡によって、主に対して栄光を捧げるものでありたいのです。

 

 

 

 

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