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思い悩むな

説教「思い悩むな

 岸 敬雄伝道師

詩編127編1~2節   マタイによる福音書6章25~34節

 本日の新約聖書の聖書箇所では、イエス様が「思い悩まないように」と言われています。本日の聖書箇所は、マタイによる福音書の5章から7章まで続く山上の説教中の一つの教えです。山上の説教の中には、八福の教えとして良く知られている教えや主の祈りなどもありますが、その中で、本日の箇所では、「思い悩むな」とイエス様は言われているのです。

 とかく私たちは生きている限り、思い悩むことが沢山あるのが現実だと思います。その様な私たちに対して、思い悩むなとイエス様は言われるのです。なぜ思い悩む必要が無いのでしょうか。

 そのことを考えるにあたり、始めに、本日の聖書箇所の始めにイエス様が言われている、「だから、言っておく」と言われていることに注目しなければなりません。だからとは何だからと言うのでしょうか。このことを少し考えてみたいと思います。

 「だから、言っておく」と言われる前にイエス様は、「二人の主人に仕えることが出来ない」事について教えておられました。ここで言われている主人となるものは、神と金のことです。イエス様は、神と金、両方に対して主人として仕えることは出来ないと言われているのです。

 神様と金を比べるなど、何とも失礼な話のように思われるかもしれませんが、拝金主義、金を神様のようにしている人は、現在でも良くみられるのではないでしょうか。

 イエス様は、私たち人間の世界を実の良くご覧になっていると思うのですが、金か神様、どちらを主人にするか、私たちにとっては、決まり切っているようにも思う方もいらっしゃるかも知れませんが、イエス様は、まだ結論を言われないまま次の話へと移られていったのです。

 そして、「だから、言っておく」といわれるのです。神と金を共に主人に仕えることはできない、だから、言っておく。と言われるのです。

 そして、神と金を比べて言われているように、命と食べ物、それと着るものと体とを比べて、どちらが大切かと言うのです。

 食べたり飲んだりするのは命のためであり、食べたり飲んだりするために命があるわけではないといわれるのです。そして、体のために着る物はあるのです。着る物のために体があるのではないのです。

 時々、着物に着られているとか、旧日本軍の逸話として語られる中に、私たちは映画などでしか知らないのですが、軍隊で支給された支給品、例えば軍服や軍靴などに体を合わせて着たり履いたりしろと言われたと聞きますが、人を軽視した、軍隊の権威を優先した随分無茶な事を言ったものだと思いますが、現在なら明らかな間違いであると言えると思います。

 そして、人は何かを食べることのために生きている様な人生と言うのもあるのではないでしょうか。もちろん今の様な飽食の時代と言われたような贅沢な食事をするために、時には日本中ばかりか海外まで行く人などもいましたが、イエス様の時代ならよほど王様かわずかな支配者層の人々以外は、その日の食べ物のために働いている、そんな人生を送って、自分の価値を見失っているような人が大勢いたのではないでしょうか。 だからこそ、何を着よう、何を食べようと思い悩むなとイエス様は言われているのです。そして、より具体的に、どれだけ、一人一人のことを神様は大切に思われているかを、空の鳥や野の花を例に上げて語られるのです。

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と、天の父は、作物を育てて、倉に納めて貯蔵する事もない鳥ですらも、しっかりと養って下さるというのです。そして、空の鳥よりもあなたがたは価値があるものなのではないかと言われるのです。どのような価値があるのでしょうか。奴隷として売られた時には鳥よりも高値がつく、そんなことを言っているのでは勿論ありません。神様の眼から見て価値があると言われているのです。

 そして、「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と言うのです。現代は医療が進歩して、寿命もお金があれば伸ばすことが出来ると考える人が居るかもしれませんが、実際には、どんな金持ちだからと言っても120歳以上生きている人の話はほぼ聞きません。寿命と言うものが定められているのも確かであり、寿命を伸ばすことが出来ない事も確かでしょう。しかし、寿命があるからこそ、期限が定まっているからこそ、今生きている時間をより大切にするのではないでしょうか。

 さらに、衣装のことでなぜ思い悩むのかと言うのです。着飾って自分をよく見せようとしているのかと言うのです。どちらかと言えば生活に余裕のある人々に対して語りかけているのでしょうか。「悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」というのです。苦労して、衣服をデザインしたり、飾り立てることに心を費やしているのに対して、今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神様は、栄華を極めたソロモンの時以上に着飾らせていてくださる。イスラエルが一番栄耀栄華を極めたソロモンの時代ですらかなわないと言うのです。

 それだけ、私たちからは、何の価値もないように思える野の花ですら、神様は心にかけていてくださると言うのです。そして、結論として、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」というのです。

 神と金の両方を主人とする事の出来ない私たちは、まず神の国と神の義を求めなければならないのです。言い換えれば神を主人としなければならないと言っているのです。そうすれば、必要なものは皆加えて与えられると言うのです。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言われるのです。

 今日ある苦労に対して一生懸命生きている人は、明日への道も神様は開いて下さるのです。思い悩まずに、全て主におまかせして歩み続けてまいりましょう。

 

 

 

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