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恐れてもだえ

説教「恐れてもだえ」

 田村 敏紀 神学生   

詩編 23編1~6節   マルコによる福音書14章32~42節  

 ゲッセマネで祈る主イエスの姿には、切実なものがあります。「恐れ、もだえ、悲しみ、苦しむ」主がおられます。こんな教祖を信じているキリスト者は大丈夫なのかと訝しく思う人々もいます。

 悠然と、自ら毒杯を仰いだ古代の哲学者や、悟り切って眠るように死んでいった教祖に比べ、主イエスは最後の最後まで、苦しみ、喘ぎ、泣き叫んで死んで行った哀れな人間のように映ります。こんな弱弱しく惨めな人間に、自分の一生を託し、自分の死後を委ねて良いのでしょうか。

 日本には古くから、「死に際が良くない」とか、「往生際が悪い」とかいう言葉があり、死ぬときにどういう風に死んだかが問題とされました。苦しんで死ねば往生際が悪いとして、極楽往生できませんでした。生き方よりも、むしろ「死に方」が大事だったのです。生前どのように生きたかよりも、死の瞬間どうであったかが問題とされ、死に際の良し悪しでその後の地獄極楽が決定されたのです。立派な死に際が求められたのです。死に際が「一大事」だったのです。

 平安時代から鎌倉時代にかけて作られた仏教説話には、日ごろ偉そうにしていた僧侶が、死に臨んで苦しみ、もがき、未練がましかったので往生できなかったと言う話がたくさん載っております。逆にそれほど修行しなかったのに、最後に仏名を唱えて往生したという話もあります。日本人は、死後の自分がどうなるか、最後の最後まで分からない不安の中で生きていたのです。

 こうした考え方は仏教本来の考え方ではありません。死に際を問題視するような発想は、かなり後の時代に人為的に作られたもののようです。しかし、死に際の良し悪しを問う考え方は、日本の習俗として人々の間に根強く残りました。現代まで続いております。現代では苦悶することなくぽっくりと、眠るように安らかに死んで行くことが理想とされているのではないでしょうか。

 確かに人間、誰しも苦しんで死にたくはありません。できれば苦しむことなく死にたいものだとは思います。しかし、死に際の肉体的苦しみは避けられないのではないでしょうか。私たちの体の細胞はいつも生きるために働いております。そこに死がやって来たら、細胞の一つ一つは生きようとして必死で抵抗するでしょう。私たちの肉体が、死に対して戦うことは当然のことであり、それがあったがゆえに私たちはここまで生きて来ることが出来たのです。死がやって来たからとすぐに白旗を上げるような細胞では、私たちはとっくの昔に死んでいたはずです。ですから死に臨んで私たちの肉体が苦しんで当然なのです。

 主イエスのゲッセマネでの苦しみが、肉体的な苦しみだけでないことは当然です。しかし、ゲッセマネの後、これから赴く十字架上での苦しみは、容易に想像されます。弟子たちの離反、裏切りも想像されます。

 それは既に、ゲッセマネにいる今現在、着々と進行しております。主イエスの苦しみを分かって共感してくれたのは、ただ一人、ベタニアで香油を注いでくれた女性だけでした。長年、ともに行動して来た弟子たちを始め、周囲の人々に一切理解されないまま、今は一人十字架に向かうのです。そこに悲しみがあります。まさに死ぬばかりに悲しい状況です。できればこの苦しみの時が、自分から過ぎ去ってほしいと願って当然ではないでしょうか。この杯を取り除けてほしいと願わざるを得ません。弟子たちが一目散に逃げたように、自分もこの状況から逃げ出したい。私たちも主イエスと同じ状況なら、同じように思ったし、願ったでしょう。いえ、もっと強く、死にたくないと切実に願ったはずです。

 しかし主は、最後にこう祈っているのです。「御心に適うことが行われますように」と。御心が行われることが最も大事なことなのです。その御心は、私たちのために苦しむことでした。

 死に際には、恐れ、もだえ、苦しみ、悲しみ、泣き叫んでも良いのです。もはや救われ、もはや神の国の約束を頂いている私たちは、安心して良いのです。死に際は問題ではありません。死に臨んで苦しんで良いのです。主がともに苦しんでくれています。主はそのために苦しんでくれたのです。主が苦しんだように、私たちも苦しんで良いのです。そして、そのあとのことは、安心して主に任せて良いのではないでしょうか。

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