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「あなたも同じように」

説 教 「あなたも同じように」 

聖 書  詩編121編1~6節 ルカによる福音書10章25~37節

岸 敬雄伝道師

 この詩編121編は、都に上る歌、すなわち一連の巡礼者の歌の第二番目の歌となります。

 この都に上る巡礼者たちが、自分たちが暮らしていた世界から都、すなわちエルサレムへと向かって歩んでいく時の歌なのです。その旅路は、人生の旅路を映し出し、人生においての神様に対する信頼を歌いあげて行くことになるのです。

この詩編121編の導入部である1節と2節において、この詩のテーマが述べています。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という問いかけに対して「わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから」と答えているのです。

初めの部分において「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と言いますが、この山々とはエルサレムの山地にあり、エルサレムと言う自分たちの都がある山地の山々を見上げながら、あるいは、都であるエルサレムがある山々に思いを馳せながら問いかけているのです。

「わたしの助けはどこから来るのか。」と独り言のように問いかけるのです。そして、自問自答に対して回答するように、2節で「わたしの助けは来る」と強い確信を語ると共に、「天地を造られた主のもとから」と答えるのです。

救いは創造主である主のもとから来るのだと言う確信を述べるのです。この確信こそがこの詩編の中心であり私たちも持つべき核心なのではないでしょうか。

確かに救いは来たのです。それは、ある人たちの思いとは異なる形だったかも知れませんが、主イエス・キリストと言う形で、私たちも含めたすべての全人類の救いが訪れたのです。

詩編は、自問自答から、3節において、さらに主に対して願いを語るように、「主があなたを助けて下さるように」と求め、足がよろめかないようにし、確かな道を歩んで行くことが出来るよう、そして、まどろむことなく、絶えず見守ってくださるようにと願っているのでした。

さらに、今、自分が言った望みは確かに叶えられると4節において「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。」と断言するのです。

そして、自分が4節で断言したことをさらには補充するように、5節で「主はあなたを見守る方」と、自分だけではなく相手に対しても主は見守られる方であると言うのです。

そして主は「あなたを覆う陰」であり、絶えず共にいて下さる御方であり、「あなたの右にいます方。』だと言うのです。右と左に分けると言われることがありますが、その時に右にいる者は選ばれた者の象徴となることもあります。この様に救いを与えて下さる主は共に居て下さるというのです。

新約聖書のルカによる福音書10章25~37節は、有名な良きサマリア人のたとえ話に成りますが、この譬え話において、盗賊に襲われて身ぐるみ剥がされて怪我をした旅人にとって思いも、思いもよらない助けが与えられたのです。それは、何時も蔑んでいたサマリア人からのものであったと言うのです。

良きサマリア人の話は、譬えとして語られてはいますが、この譬えに出てくる旅人にとって、詩編の作者がエルサレムの方向から来ると考えていた助けが、思いもよらない方向から向けられたのです。

神様はどの様な方法で救いをもたらしてくださるかは、私たちの予想をはるかに超えた方法をおとりになることが良くあります。

私たちは、そんな神様の助けに対して敏感でなければなりません。そうでなければ、神様からの救いをみすみす逃してしまうからです。

それと共に、私たちも良きサマリア人と同じように、人を救うように求められていることに対しても敏感でありたいものであります。神様からの救いは、与えられるばかりのものではなく、何時いかなる時に、私たちが良きサマリア人となるように求められるかもしれないのですから。

何時でも、私たちは、良きサマリア人と同じように主の道具として人を助ける者となれるように備えておきたいものであります。

 

 

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