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「全て、素晴らしい」

説教「全て、素晴らしい」

岸敬雄伝道師

詩編 147編10~11節 マルコによる福音書 7章31~37節

 

 本日の聖書箇所では、マルコによる福音書にのみ記載された部分です。イエス様が、ティルスの地方で、ギリシア人でシリア・フェニキア生まれの女の娘から悪霊を追い出された後、その場を去り、フェニキアの港町であるシドンを経て異邦人の地であるデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖へとやって来た場面です。

 この旅時の経路は、現実的には不自然さが残りますが、異邦人の地を巡ってガリラヤ湖まで来たことを示しているものと思われます。

 ガリラヤ湖は、ペトロやヤコブ、ヨハネやアンデレを弟子として招いた地であり、イエス様がはじめに宣教を始めた特別な地です。これまでの一連の癒しの物語の区切りをつける場として、特別の地であるガリラヤ湖畔が、場面として選ばれているのではないかと思われます。

 この様な特別な地において、一人の耳の聞こえない舌の回らない人が人々に連れて来られたといいます。イエス様は多くの病人を癒されたと聖書には書かれていますが、この場面では、一人だけ耳が聞こえず舌が回らない人が連れてこられたと言われています。なせ、この場面では、この人一人だけが連れてこられたのでしょうか。この人はどの様な意味、あるいはなにを象徴しているのでしょうか。

 それは、これまでのティルスの地方でのギリシア人の女の娘から悪霊を追い出して癒された物語からの一連の癒し物語を終わるにあったって、特別な意味を持たせているのです。

 それは、イザヤ書の35章4節、5節にある『心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。』という、特に5節の「見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」という言葉を思い返させてこの物語を終わろうとしているのです。

 ここで言われている、「見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」と言うのは、物理的な癒しの意味以外にも、福音について、言い換えれば救いについて「見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」事が出来ることを意味しているのです。

 ここで耳が聞こえず舌が回らない人が癒される物語は、救いの訪れと、救いを聞き、語り伝えることが出来るようになることを象徴しているのです。

 人々は、イエス様に、耳が聞こえず舌が回らない人の上に手を置いてくださるようにと願って連れてきたのでした。それに対してイエス様は、まず始めに、その人を群衆から連れ出したのでした。それは、群衆と癒されるべき人を分けたのであり、群衆がこの癒しの奇跡から締め出されたことを示しています。これからは、イエス様と耳の聞こえない舌の回らない人の一対一で向かい合います。

 なぜ一対一なのでしょうか。それは救いを体験するのは集団での体験ではなく、神様との一対一の関係で起こる出来事を象徴しているのではないでしょうか。神様から与えられる救いは個人的なものであり、神様によって繋いでいただいた救いの群れが教会であり、教会の集まりなのです。教会の中においては深い交わりを持つことも可能ですが、救いは神様から個人へと与えられるものなのです。

 そして、イエス様は具体的に、頭に手を置くだけではなく、具体的にイエス様ご自身の指をその両耳に差し入れた後に、それからご自分の唾をつけてその舌に触れられたのでした。

  そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われたのです。深く息をついたのは、天父の御力を地上で表すことに対する高揚感を表しています。イエス様は、その人を癒される時に自分の職業として行なうのではなく、使命感として行うのでもないのです。

 イエス様の行動の結果は、たちまちに現われます。耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった、と聖書には書かれています。

  その結果に対して、本人がどの様にしたかについては書かれていません。この結果への反応は、今まで置き去りにされていた人々が表しています。人々はすっかり驚いて言ったのでした。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と奇跡に対して驚嘆したのです。

 さらに、イエス様が、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされたにもかかわらず、人々はイエス様の命令に従わず、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようになさったことをますます言い広めるのでした。

 

 本当に素晴らしいことは、救い主の到来、そして、救いを聞き、語り伝えることが出来るようになったことであり、そのことこそが素晴らしい事なのです。 しかし、依然として、この癒しの物語の真の意味を弟子たちも含めて理解することが出来ていなかったことを、奇跡ばかりを言い広めていったことが示しています。。

 ここで言われている人々が言いふらす行為は、イエス様の意思に反していたことは明らかです。なぜなら、イエス様の救いは、イエス様の十字架と復活によって成就しています。

 イエス様がおいでくださった事で、救いの到来は確かに始まっていましたが、その真の姿をまだ現していなかったと言えます。そんな未熟なまま奇跡の感動のみが人々に伝えられて行くことはイエス様にとっては、誠に不本意であり、これからの行動に対する障害とすらなって行くことは確かでありました。

 それと共に、福音が伝えられる所ではどのような障害があったとしても伝えられて行くことも表しているのではないでしょうか。それはイエス様のご意思ですら止めることが出来なかったのだと、言うのです。

 イエス様が行われた数々の奇跡を見て喜び感動した人々は沢山いましたが、その奇跡が終わってしまえば忘れてしまいました。しかし、一番力なく弱々しいお姿であったはずの十字架に掛られたイエス様のお姿は、私たちは直接目にすることが出来ないにもかかわらず、掛かられた十字架が象徴するだけででも、私たちに直接に伝えられているのです。

 私たちは表に出ている現象のみに目を止めるのではなく、真に出来事の本当の意味を理解できていない姿を現しています。私たちは奇跡に目を奪われるのではなく、私たちの救い主は、主イエス・キリストしかおらず、私たちは、このお方以外に頼ることが出来ない事をけっして忘れてはいけないのです。

 

 

 

 

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