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主に認められたもの

説教題 「主に認められたもの」

岸敬雄伝道師

詩編 140編13~14編   ルカによる福音書 18章9~14節

 

 本日のたとえ話の場面は神殿です。ここでは、たとえ話であるとはっきり言われています。しかし、マルコ12章にある、やもめの献金の話もあるように、イエス様はよく神殿に行かれて人々のことをよく観察されていたことがわかります。

 本日の話では、神殿に二人の人が祈りを捧げに登ってきました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だったと言うのです。ファリサイ派の人は、律法を守ることに熱心で、模範的な生活をしていると自負しているような人たちで、言うならば特権階級、またはこの時代のエリートと言っても良い人々でした。

 それに対して徴税人は、支配者であるローマのために同じ民族であるユダヤ人から税金を取り立てることを仕事にしていました。それも中には、税金を取り立てる時に規定以上の金額を取り立てて私腹を肥やす様な者までいたのでした。その様な事があったため、人々からは嫌われたり、さげすまれたりする職業の人物だったのです。

 そのような、人々から見て両極端のような二人が祈りを捧げ始めました。すると、ファリサイ派の人は、堂々と神殿に向かって、自分の日ごとの行いを自慢するように、祈りの中で披露し始めたのでした。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と祈ったのです。

 確かに、当時の律法として奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことは、良い事です。しかし、「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とはどのような思いが込められていたのでしょうか。それは、徴税人を、その職業だけで、その個人のことを何も知らないとしても、既にさげすんでいるのです。

 さらに、徴税人が出来そうにない、週に二度の断食と、全収入の十分の一を献げていると言うのです。断食も、十分の一の捧げものも大切な事とされていました。現在でも収入の十分の一を十分の一献金として教会に献金することを積極的に進めている教会もあります。同じルカによる福音書では11章の42節でイエス様は、「 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」と言われて、十分の一の捧げものをおろそかにしてはならないことを前提としながらも、正義の実行と神への愛をおろそかにしてはならないことを戒めています。

 この様に、自分の正当性を誇るように祈っていたファリサイ派の人に比べて徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈ったのです。

 徴税人が税金の上乗せをして懐を肥やしといたなどとは書かれていませんが、ファリサイ派の人が言ったような律法を守ることが出来ない時点で自分が罪人であることを認めているのです。徴税人は自分が罪人であることを告白し、神様からの憐れみを願ったのでした。誰とも比べていません。

すると、善として認められて帰った者はファリサイ派の人では無く、この罪人であると言って神に罪の許しを請うた徴税人の方だと言うのです。

そして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」といわれるのです。

徴税人は、自分が行っていることが人に嫌われる行為であり、主の眼から見ても正しくない事を行っていると理解して、自分が罪人であることを認めていました。そしてへりくだって主に対して許しを乞うたのです。

 それに対して、ファリサイ派の人は、自分の行いは完璧であり、徴税人のような罪人ではないと誇っていたのです。しかし、どうでありましょうか。ファリサイ派の人も徴税人も共に主の眼から見れば罪人なのです。たとえ、どの様に正しい生活をしているつもりでいたとしても、決してそれは完全な生活を送ることはできないのです。

 結果として、表面上の違いはあるとしても、どちらも共に同じ罪人なのであり、その事を自覚して、自分が罪人であるとへりくだるか、自分の行いを誇って高ぶり、人を見下げるかの違いがあるだけだと言うのです。。

 言って見ればファリサイ派の人のように人と比べての相対評価ではなく、神様と自分の関係としての絶対評価として自分を見つめることも必要なのではないでしょうか。関係はあくまでも神様と個人個人の関係なのです。

 そして、イエス様は、義とされるのは自分が罪人であることを自覚してへりくだる人の方であると言うのです。

 主が義として下さるのです。だからこそ、詩編にも言われているように「正しい人は 御前に座ることができるでしょう。」正しい人として下さるのは主自身以外にいないのです。

 

 そのようなこと分かっているよと、皆さんは思われるでしょうか。クリスチャンにとって謙遜は忘れてはならない事であり、他人の欠点や至らない行動を批判するものではないことを知っていることです。

 しかし、時としてその様な謙遜な思いを忘れて高ぶる思いが頭をもたげてくることはないでしょうか。

 人より上手くなりたい、誰にも負けたくない、その様な向上心を持つことは悪い事ではありません。しかし、人のことを見下す心が発生しないかは十分に気をつける必要があるのです。皆、私たちは、主イエス・キリストの十字架によって救われた者なのですから。

 

 

 

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