過去の説教

一番の掟

説教「一番の掟」

岸敬雄伝道師

詩編142編 4~6節 マルコによる福音書 12章28~34節

 

 本日の説教題である「一番の掟」について、マルコの福音書から聞いていきたいと思います。

 掟と呼ばれるもは、イエス様の時代にも沢山あるのはお判りでしょう。その中の一つをあげて見ると十戒などが代表的なものだと言っても良いでしょう。

 十戒はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトから道び出される途中に与えられましたが、生活の基本的な決まりが10個に分けられて神様から与えられたものであると言われています。現在でも礼拝の中で十戒を唱える教会もあると聞いたことがあります。

 十戒は、生活全般の戒めとされていますが、神様への戒めが前半、人間同士の戒めが後半にそれぞれ半分ずつ書かれていると言われています。詳しくは、次の機会へと譲りたいと考えますが、聖書の戒めは、神に対する掟と、私たち人間同士に対する掟とがあることが分かります。十戒が与えられた後にも多くの戒めが与えられました。

 掟と呼ばれるもは、イエス様の時代には十戒の他にも数多くありました。本日はその中で、一番の掟はなにか、と言うことになります。本日の聖書箇所では、一人の律法学者が、イエス様が他の人々との問答で立派にお答えになったのを見て「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたことから始まります。ここでイエス様に問いかけた律法学者は、これまで質問していた人たちの様に、イエス様を陥れようとするのではなく、真面目にイエス様に質問したのでした。なぜならばイエス様のご立派な答えをしていると認めて質問したからです。

 それに対するイエス様のお答えが、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

   第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と言うのです。

 第一の掟は、旧約聖書の申命記6章4、5節にある、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という旧約聖書の言葉を引いてお答えになっているのです。

 第二の掟は、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と言う旧約聖書の言葉を引用して答えられたのです。

 イエス様の時代でも、申命記やレビ記は、モーセ五書の一書として、律法が書かれている大切な書として扱われてきていました。ですから、律法学者なら当然知っていておかしくない戒めであると言えます。

 イエス様のお答えに対して、律法学者は「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と答えたのでした。

 イエス様が言われたのは二つの戒めでありますが、その前提となっているのが、神は唯一である、ほかに神はない、と言う一神教の考え方です。

 ここで律法学者が言っている神は、旧約聖書の神であり、天地創造の神、この世の全ての支配者としての神ではありますが、私たちが信じている父・子・聖霊なる三位一体の神としての認識とは異なっています。

しかし、旧約聖書しかなかった時代においては、この様なかたちでの神理解は正確なものと言っても良かったのでしょう。その上で、律法学者が『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と答えたのをお聞きになって、イエス様は律法学者に対して「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのでした。神の国、砂割神のご支配から遠くない、言い換えれば救いから遠くないと言われたのです。この答えに対してイエス様は、あなたはこの答えを知っていることによって救いを受けられるとはおっしゃいませんでしたが、救いに近いところにいるとおっしゃられたのです。

 律法学者の答えは確かに正しいものでありました。言ってみればイエス様を救い主として受け入れるなど、救いに必要な事が欠けているとしても、 イエス様は律法学者が適切な答えによって、救いから遠くないものであると認められたのです。

 この後、質問した律法学者がどの様になったかは聖書には記載がありません。むしろ、それ以後、もはや、あえて質問する者はなかったと言われています。

 なぜ質問するものが亡くなったのでありましょうか。イエス様には質問してもかなわないと射止めたからでしょうか。それともイエス様の説いている教えが正しいので、皆が受け入れたからでしょうか。少なくとも皆がイエス様の教えを受け入れたわけではありませんでした。

 もはやイエス様と問答を行っても自分たちには勝ち目がないことを悟った人々は違う方法をとるようにと考えだしたのでしょう。

 ここにおいて選びが起こったのです。イエス様についていくか、イエス様の敵として行動を起こすものとなるか。敵となるものはついには、イエス様を十字架につけて処刑してしまうところまで行きつくのです。しかし、イエス様についた者は、結果としてイエス様を見捨てて逃げだし、力ない弱い卑怯者のようでありました。しかし、その先の歴史ではどうでしょうか。イエス様が処刑されて口封じが終了したとするならば、イエス様が教えは、そのまま消え去ってしまっているはずでした。ところがおおよそ2000年たった現在まで脈々と伝えられているのです。

 聖書の中の使徒言行録などに出てくる教会は、現在に残っているものは、わずかしかないと言うのにです。神様の奇しき御業を見る思いがあります。神様の業は人の思いを超えて進んでいくのです。

 イエス様はマタイによる福音書5章18節で「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言っています。戒めのまとめられたものである律法が、一点一画も消え去ることはない。その中でも一番の掟を確認して、私たちは、イエス様に、選ばれ、就いていく者としてどの様に生きるべきかを思い返す機会を与えられているのではないでしょうか。

 

アーカイブ