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高価な真珠

説教「高価な真珠」

岸敬雄伝道師

詩編141編 8~10節  マタイによる福音書13章44~46節

 

 本日8月9日長崎、8月6日は広島に原爆が落とされた日で、75年目に成りました。先週の土曜日からは、世の中ではお盆休みに入り、今週には75年目の終戦記念日を迎えることになります。先祖や今は亡き人たちのことを思い、平和を返すことが多い時期なのではないかと思います。

 先祖の事を思う時、私などは、子どもの頃、死んだ後に行く所として天国と地獄と言うような話を聞いた思い出があります。仏教で言うと正式には極楽と地獄と言う事が正しいのだと思われますが、天国とは、仏教でいう極楽と同じように、死後に行く善き世界と考えられていると思います。

 むろん、その理解も間違いありませんが、しかし、本日言われている天の国とは、その様な死後の楽園ばかりを意味するわけではありません。

 実は天の国とは、聖書において、マタイによる福音書だけで使われている言葉なのです。そして、同じ意味でほかの福音書で使われている言葉は神の国と言うことになります。

 そして、その言葉は、神の王国、王権、神のご支配をも表す言葉となのです。神様が王でいらっしゃる所は、まさにパラダイス、楽園であると言うこともまた確かな事ではありましょう。

 また、天の国、あるいは神の国について、具体的な場所のようなイメージだけではなかったことは確かです。なぜなら、本日読まれました聖書箇所の少し前部分、31章の31節~33節において、からし種とパン種の譬えをもちいて、天の国とはどのようなものであるかが語られています。

 天の国はからし種に似ている。どんな種よりも小さいのにもかかわらず、人がこれを取って畑に蒔けば、成長してどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる、と言うのです。

 そして、また別のたとえ話しとして、天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」といっているのです。

初めの譬えであるからし種は、野菜の中で一番小さいけれども、成長すると鳥が泊まるほどの大木に成長すると言うのです。そして、パン種は三サトンと言いますから、38.4ℓの粉に混ぜると粉全体を膨れさせると言うのです。少しで沢山に影響を及ぼすと言っているのです。どちらも小さかったり、少ないものが大きくその姿を変えることを表しています。

 神の国は、何よりも小さく見えても、大木に成長し、パン種のように、少しでも周りに影響力があるものだと言っているのです。

 そして、その様に影響力のある神の国を見つけた者がどの様な行動を起こすかが、本日のたとえ話である、畑に隠してある宝のたとえ話と高価な真珠のたとえ話で語られているのです。

 畑の宝の譬えと高価な真珠の譬えにおいての違いがあるのも確かです。畑の宝の譬えでは、畑に隠された宝を見つけた人は、偶然見つけたことになります。その上で、人の畑に宝が隠されているのを見つけると、見つけた人は宝をそのままにしておいて、自分の持ち物をすべて売り払ってその畑を宝ごと買い取ると言うのです。畑の本来の持ち主には宝のことは何も教えずに買い取るのです。

 それに対して、高価な真珠のたとえ話では、真珠を買い取った人は、良い真珠を探し求めていた商人だと言うのです。そして自分の目的である高価な真珠を見つけたら、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、その高価な真珠をかうと言うのです。

 自分の持っている物の中で、どの様な持ち物よりも真珠が大切なものであると自覚して手に入れると言っているのです。

 偶然であろうとも、一所懸命の探していたかの違いはあるにせよ、見つけた時には自分のできる限りのことをして手に入れようとする、それが天の国だと言うのです。

 天の国とは、それほどまでに価値があるものだと言うのです。天国に入ること、言い換えれば神様のご支配に入れられることは、それだけ、価値があることだと言っているのです。

どうして、そこまで価値があるのでしょうか。それは、神のご支配は、私たちのような小さなものに与えられ、からし種のように成長して大きくなり、パン種の様に周りに大きな影響をもたらすからです。もちろん良い影響をもたらすのです。

 この様に、素晴らしいものであると描かれている、神の国、言い換えれば神のご支配が、すでに私たちが生活しているこの地上に、その片鱗を表している所があります。

 私たちが今集っている教会こそが、神の国の片鱗なのです。もちろん完全な形ではないことは確かではありますが、神様のご支配は確かに教会を通してこの地上に示されているのです。

 詩編作者は神に向かって、私に目を向けて私たちの避けどころとなって下さるようにと願っています。そして守りを願っているのです。私たちが神の国言い換えれば神のご支配である教会に入ることによってこの詩編の作者の願いはかなえられるのです。なぜなら、私たちのために仕掛けられたわなから避けることが出来、悪の掘った穴から避けることが出来るのです。

この避けどころが教会なのであり、教会の主人は神様なのです。自分たちの教会であるのは確かですが、教会は私たちの持ち物ではありません。神様のご支配なのです。神様の秩序によって成り立っているところなのです。

 私たちは、何にも代えられない宝である天の国が地上で姿を現した教会へと呼び集められたものとして、全てを投げ出してでも教会へ使えることは、それにも増した喜びを与えていただけることを本日の聖書箇所はあらわしていてくれるのであります。

 

 

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