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「地の塩」

説教「地の塩」

岸敬雄伝道師

詩編139編 7~12節 マタイによる福音書5章13~16節

 

 本日の新約聖書の御言葉は、マタイの夜福音書の5章から7書にまでに書かれている、山上の説教の一部と言うことになります。山上の説教では、始めに八福の教えと言われる、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言う様に、色々な人に対して幸いだと言っているのです。さらに、最後のののしられ、迫害され、悪口を言われる人に対する言葉は、帆コアの元場とは違い多く述べられています。それも幸いだと言うばかりではなく、大いに喜ぶようにと言うのです。なぜ喜べるかと言えば天には大きな報いがあるからだと言うのです。

 しかし、ここで迫害されたり、悪口を言われている人はどの様な理由で方言えば、イエス様に関わることで迫害されているのです。その様な人は天には大きな報いがると言うのであり、前の預言者も同様に迫害されていたと言うのです。

 ここで言われている迫害されている人々、すなわちキリストの弟子たちが、本日言われているあなたがたと言うことになります。そして、弟子たちの覚悟について、塩の譬え、ともし火に譬え、そして弟子の目的について述べられています。この弟子たちへのイエス様からの御言葉は、私たち自身のこととして受け取ることが十分にできる御言葉です。 

 イエス様は、弟子たちのことを地の塩である、と言われています。塩は海からとられたものと思われるかもしれません。実際、私もさらさらの死海の塩をお土産にもらったこともあります。しかし、イエス様の時代塩水から塩をとることは大変だったでしょう。むしろ山から塩を掘りだす、岩塩を使う方が一般的だったのではないでしょうか。

 そんな、塩に対する私たちとの認識の違いはあるかもしれませんが、塩が大切なものであるのは確かです。食べ物の味を調えることをはじめ、体調を整える為にも大切ですし、肉などを塩漬けにして腐敗を防ぐなど色々な用途があります。その上、イエス様が言われているように、塩以外には塩の味をつけることが出来る物はない、塩の味をつける為に塩は唯一無二の物なのです。

 弟子たちの働き、すなわちイエス様の教えを人々に伝え、救いへと導くというイエス様に仕える働きは、唯一無二のものであり、変わる物が無い物だと言っているのです。

 しかし、そんな塩であっても塩の味を失ったなら何の役にも立たないと言うのです。塩が塩の味を失う事などあるのでそうか。本来ありえない事でありましょう。それと同じようにイエス様の業に生きる事も本来無くなることはありえないことだと言うのであります。その上で、その様なあり得ない事がもし起こったとしたならば、どのようになるかと言っているのです。

 もし、塩が塩の味を失うならば、何にも役に立たない為、道に捨てられて、人々に踏みつけられると言うのです。私たち、イエス様の弟子として、イエス様の教えを失ったとしたら、どの様になるでしょうか。それは、もはや何の役に立たず、外に捨てられて人々に踏みつけられてしまうと言っているのと同じです。クリスチャンがイエス様の教えを失ってしまうことがあるでしょうか。本来ありえない事であるはずです。しかし、ドイツなどの話として、この様な話しを聞いたことがあります。ドイツの一部では教会への献金は教会税と言う形で、行政組織が集めて、教会へ配分されるので、教会員は直接教会へ献金するわけではないと言うのです。

 そして、個人が教会へ行くのは、人生で4回だと言うのです。最初は生まれた時に、幼児洗礼を受けるためで行って、その後は、献身礼・信仰告白式のために教会へと行き、その後は結婚のために教会に行く。そして最後は、自分の葬儀のために教会へと行くと言うのです。

 勿論、これはたとえ話のようなものと考えても良いと思いますが、教会へ行くのは、人生の儀式の時だけだと言うのです。それでもクリスチャンであると言うわけです。この様な人々も本当のクリスチャンであると言えるのか、個人の信仰は計り知れませんが、疑問がおこる気がしました。

 そのような話は極端かも知れませんが、自分がキリスト者だと言いながら、キリスト者としての塩味を失っていないかは、私たちもよく吟味してみる必要があります。

 更に弟子たちに対して、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」というのです。世の光であることと山の上の町がどの様なかかわりがあるのか、それは、隠れることが出来ないと言う事でありましょう。世の光としてイエス様の教えを輝かし、山の上の町の様に隠れることなく堂々とイエス様の教えを伝えるづけて行く様にと言っているのです。

 さらに加えて、ともし火の譬えが語られるのです。ともし火をともして升の下に置く者はいない、と言うのです。ともし火を升の下に置いたら、その明るさは、封じられて役には立ちません。そして、升の中では酸素が使い果たされれば炎は消えてしまうでしょう。だからこそ、そのような事をする人はいないのです。本来あるべき燭台の上に置くのです。そうすれば、本来の役割である家の中を照らすことが出来ると言われているのです。

 本日の詩編でも言われていた様に、神様は私たちをどこにいようとも見守っていてくださいます。そして、御手を持って導いて下さるのです。さらに私たちをとらえていて下さり神の光は夜であっても私たちを照らし出していてくださるのです。

ともし火が、本来のあるべき所である燭台にあるように、私たちイエス様の弟子も、世の中において輝き、山の上の町の様に隠れることが出来ないようになり、そして、全ての民が天の父をあがめるようになるために、自分のなすべき業を雄々しく果たしていくべきなのであります。 

 

 

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