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「五千人の給食」

説教題 五千人の給食

詩編51章12~14節 ヨハネによる福音書6章9節~15節

岸敬雄伝道師

 

 本日の新約聖書の箇所は、5千人の給食として有名な物語で、ヨハネによる福音書から聞いていきたいとおもいます。なぜ、ヨハネの福音書ととわざわざ断ったかと申しますと、ほかのマタイ、マルコ、ルカによるそれぞれの福音書においても、5千人の給食の物語は語られているからです。

 しかし、各福音書で共通する部分もありますし、異なっている部分もあります。例えばイエス様によって養われた人の数は5千人にパンを分け与えられたことはどの福音書でも共通していますが、マタイでは食べた人は、「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」と言い、ルカは、「男が五千人ほどいたからである。」と男の数を五千人としています。

 マルコは、「パンを食べた人は男が五千人であった。」とやはり、男の数のみに気を配っているのに対して、ヨハネは、本日読んでいただきました通り、「その数はおよそ五千人であった。」と言う様にむしろ数がおおよそだと言うような言い方に成っています。 それ以外にもパンと魚を持っていたのが少年であったと言うことはヨハネの福音書にしか出てきません。

 この様な違い以外にも、この奇跡物語が福音書のどの部分におかれているかという違いもあります。

色々な違いを見受ける事も出来ますが、全ての福音書にこの奇跡物語が乗せられていることから考えられるのは、五千人の給食の物語は大切な奇跡物語として、扱われてきたと言うことです。

 そして、この5千人の給食に対して、色々な解釈をする人たちが現れました。例えば、イエス様がみんなに食物を与えようと言われた時に自分の持ち物を素直に指し出したのは少年だけでした。子どもの素直な行動を見て、大人たちが恥ずかしくなり自分たちが隠し持っていたパンを指し出したのではないか。だから、パンは増えみんなが食べるのが出来たのだと言うのです。確かにそのような事を考えるならばパンが増えたことに対しての理屈がつくような気がします。

 しかし、聖書を人間が理解しやすいように解釈する事には注意深くあるべきだと、その時説教されていた先生も言われて下りました。

 聖書に書かれているには、イエス様が感謝して祝福してから、みんなに配るとそれを受け取りみんなが満足したと書かれているのです。パンくずでも無駄にしてはならないと集めてみると、残ったパンくずが十二籠もあった、と書かれているのです。この残ったパンくずが十二籠もあったと言うことは、福音書において共通のこととして書かれています。パンが確かに増えたことを明かししています。

 さらに、ヨハネによる福音書では、ほかの福音書にない、『そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。

  イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』と言うようなことが書かれているのです。

 そして、イエス様によって養われた五千人が、ほかにどのような行動をとったかは書かれていません。

 他の福音書と違って、パンを食べた人がイエス様を自分たちの王として立てようとしたことは、ヨハネによる福音書には書かれていますが、その後の消息については、ほかの福音書同様に書かれていません。

 人々はパンを食べ、物理的に満足したことによって、イエス様のことを世に来られる預言者だと考えたのです。そして人々は自分たちの王とするためにイエス様を連れて行こうとしたのです。自分たちを飢えさせることのない、この世の恵みを与えて下さる王として祭り上げようとしたのです。

 イエス様が王であることは確かです。しかし、このパンを食べた人々との考えていたのとは全く別な、私たちの方から選べる王ではなく、私たちにとって唯一御一人の神に力によって統治される王の中の王、永遠にわたる王なのです。このことを、パンを食べた人々は理解できていなかったのです。パンを食べ、物理的に満足した人々は、その後再び空腹になります。

しかし、イエス様が与えて下さる真のパンは決して二度と空腹になる事が無いパンなのです。そのことを理解していない人々は、イエス様の元を離れて行ったのです。そのことをそのことを察しられていたイエス様は、ひとりでまた山に退かれたのでした。

 イエス様は、弟子たちすらお連れに成らずにひとりで山に退かれるのです。聖書には何をしにひとりで山に退かれたかは書かれていませんが、イエス様はたびたび山に行き祈りを捧げられていたので、山で祈り、天父との交わりの時間を取っていたと考えるのは妥当な事だと思われます。

 弟子たちがイエス様と再会するのは、湖を渡る時で、イエス様が湖の上を歩いて渡っておられる時に成るのです。

 私たちも目先の利益を求めてしまう時には、パンを食べた五千人の人々と同じになる恐れがあります。そのことを、この奇跡を通してヨハネによる福音書の作者は私たちを戒めていてくれるのです。私たちはイエス様の本当のお姿を、見誤らずに過ごして行かなければならないのです。

 

 

 

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