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「世の終わりまで」

説教「世の終わりまで」

聖 書 詩編89編20~53節  マタイによる福音書28章16~20節

岸 敬雄伝道師

 

 本日のマタイによる福音書の最後の部分は大宣教命令として有名な部分です。

 「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」とイエス様はお命じに成ります。

 ここで父と子と聖霊の名によって、というのは、祝祷で有名なコリントの信徒への手紙二13章13節にある 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」、というのと並んで父、子、聖霊の三位一体の神を表している聖書の箇所としても有名な所となります。

 マタイは、このイエス様がお命じになった出来事を、イエス様の復活の出来事の一つとして扱っている事にも注意しておかなければ成りません。その復活の出来事は、婦人たちにイエス様が復活してお姿を現された後に、兄弟たちにガリラヤに行く様にと伝えるように言われたのに対して、ユダヤ人である祭司長や長老たちが相談して、イエス様のご遺体を弟子たちが盗み出したと言う話を作り上げて世の中に信じさせようとしていた、その様な出来事です。

 その様な中で、イエス様が前もって言われていた通りに、十一人の弟子、すなわち、イスカリオテのユダを除いた十二使徒と考えられる弟子たちは、ガリラヤへと出かけて行ったのでした。そして、イエス様が言われていた山へと昇って行ったのです。

 ガリラヤとはイエス様の伝道を初めに行われた地であり、十二使徒の中でも最初に弟子として召された、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、このガリらや地方に出身者です。その様な弟子たちは、先にイエス様が示されていた山に登って行き、イエス様にお会いしたのです。

 そして、弟子たちはイエス様の前にひれ伏したのでした。イエス様の前でひれ伏すのは、イエス様に従順を示す行為であることは確かでしょう。しかし、「疑う者もいた」。とはっきりとマタイは書き添えているのです。

 なぜ、わざわざ疑うものが居たことを書き添えたのでしょうか。別に自分たちの教会の指導者となっていた十二使徒たちの中にさえも疑うものがいたことを書き添える必要がなぜあったのでしょうか。

 やはり、それは、先にも言いましたが、この出来事がイエス様の復活の出来事と関連して語られているからです。復活と言う出来事は、それほどまでに人の考え、すなわち人知を超えた領域の出来事であるとわかっているからです。

 ヨハネによる福音書では、20章で十二使徒の一人であるディディモと呼ばれるトマスが、イエス様の復活したことを、その傷口に手を当ててみなければ信じないと言っています。

 ルカによる福音書では、24章で復活したイエス様のおとずれを受けた弟子たちが信じられないでいると、イエス様は手足をお見せになり、触ってみるようにとまで言われるのです。その後、焼き魚の一切れを食べて見せたりされています。

 いずれも、弟子たちの信じられない、あるいは疑っている様子が各福音書にも描かれているのです。

そんな弟子たちに対して、イエス様の方から近寄ってきてくださったと、マタイは言っているのです。

 私たちが信じることが出来ない事であろうとも、その時には私たちからではなく、イエス様の方から近寄ってきてくださるのです。

 そして、イエス様は、このようにお命じに成ったのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのです。

 イエス様は、まず初めに自分は天地の一切の権能を授かっていることを宣言されるのです。イエス様は天父なる神から一切の権能を授かっていると言われるのです。決して自分一人だけの行いではないと言われるのです。

 そして、さらにその上に、イエス様は弟子たちに、「出かけて行き全ての民をイエス様の弟子としなさい」と言われるのです。ユダヤ人にとかローマの人々とかに限定しているわけではありません。すべての民に福音を伝えて弟子にするようにと言われているのです。この命令の全ての民の中には私たちも含められているわけです。

 そして、弟子となった者たちに対して、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいた事を全て守るように教えなさい。と言われているのです。

 イエス様が教えられたこととはどのような事であるでしょうか。福音です、と言えばその通りですし、自分を愛するように神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することかもしれません。そればかりではない、十戒のような具体的な戒めもあるのかもしれませんが、それは、洗礼を受けた後に学ぶことでよいと言っているのです。洗礼を受ける時にすべてを理解して洗礼を受けるようにと言っていられるわけではないのです。洗礼を受けた後でも、信仰の道を歩むことは学び続けて歩み続ける道なのです。なぜなら、私たちはれ解したつもりでも忘れ、自分本位となることもあるのではないでしょうか。

 さらにイエス様は、弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との約束を与えてくださっているのです。この様に、忘れやすく自分本位に成りやすい私たちに対して、世の終わりまで、いつもともにいて下さると約束して下さっているのです。

 この命令と約束は、十二使徒が弟子の代表として、現在の私たちに対しても、この先のイエス様の弟子たちに対しても約束されている御言葉なのです。世の終わりまで共にいて下さると言われているのですから、そして、現在の私たちに対しても、すべての人々に福音を伝えるようにとイエス様はお命じに成っておられるのです。

 

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