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「人間をとる漁師に」

説教「人間をとる漁師に」

                    詩編73編24~28節 ルカによる福音書5章1~11節

                                        岸 敬雄伝道師

 この出来事は、イエス様がゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。と何か唐突に始まったような感じがします。

 このゲネサレト湖とは、ガリラヤ湖と同様だと考えられます。イエス様が初めに伝道を開始された土地だと言うことになります。

 そして、ルカによる福音書の作者は、イエス様がゲネサレト湖畔に立っておられる時に神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た、と言っています。この福音書記者は、もうすでにイエス様の言葉を神の言葉であると言っているのです。群衆が押し寄せてくるのを見るとイエス様は、そこに二そうの舟が岸にあるのを御覧になり、舟に乗せてくれるようにと頼まれたのです。そこにいた漁師たちは、舟から上がって網を洗っていたのでした。群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せてきているのに対して漁師たちは舟から上がって網を洗い黙々と作業を続けていたのです。

 本日の主役は神のみ言葉を聞こうとして訪れた大勢の群衆ではなく、イエス様に関心を示さずに黙々と網を洗っている漁師たちなのです。

 イエス様は岸にあった2そうの舟の1そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったのでした。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められたのでした。

 しかし、イエス様が舟を出すように御頼みに成るまで漁師たちは黙々と網を洗っていたのです。なぜそのように黙々と作業をしていたのかは、その先を読んでみるとわかる気がします。なぜなら、彼らは夜通し苦労しましたが、何もとれなかったのです。

 舟があると言っても、日本の網元のような人を働かせて、その上がりで生活できるような漁師ではありません。その日、その日の魚の取れ具合で生活をしていたのです。湖だと言っても毎日必ず漁に出ることが出来るわけではありません。

 せっかく漁に出れて、一晩中働いたにもかかわらず、収穫が全くなかったのです。それでもです、次の漁のために支度だけはしておかなければ成らないのです。心身ともに疲れ果てている中で、次の漁のために網を洗っていたのです。イエス様には一切関心を示す余裕などなかったのです。

 そんな漁師たちの一人であるシモンがなぜ、イエス様が船に乗せてほしいとたのまれたのを断らずに、素直に従ったのでしょうか。そのはっきりした理由は書かれていません。ただ、この出来事の前にシモンは4章の38,39節に出てくるように、しゅうとめが熱を出して寝込んでいる時にイエス様に癒していただいた経験をしていました。

 イエス様とシモンが、以前からの知り合いであることもうかがえますし、しゅうとめを癒していただいたことがあるのも確かで、恩を感じていたことも考えられます。その様なことが背景にあったと考えることはできるのではないでしょうか。

 不思議なことに、これから話が進んでいくと、以後はイエス様の話を聞いた群衆の様子などは出てきません。これからは、漁師たちとイエス様との会話が集中となって行くのです。

 イエス様が話し終わった時に、イエス様はシモンに対して、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。

 その時のシモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのでした。漁をするのは夜の時期でした、一晩中自分たちは汗して漁を行ったのです。それにもかかわらず一匹の魚も取ることが出来なかったのです。自分たちはプロの魚を捕る漁師です。この湖で魚を取って何年も生計を立ててきたのです。そんな自分たちですら魚を一匹も昨晩は取ることが出来なかったのです。それが、全く素人のイエス様が網を下すようにと言われるのです。取れるはずがないと考えても当然かもしれません。お言葉ですから、という中には疑っている様子が十分に感じ取ることが出来ます。

 そのような半信半疑の思いで網を下した結果が、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのでした。 そこで、もう一そうの舟、ヤコブやヨハネたちの船に合図をして、来て手を貸してくれるように頼んだのです。

 彼ら、すなわち助けに来た船と共に網を引き揚げると、二そうの舟は魚でいっぱいにしたのでした。すると、舟は魚の重さで沈みそうになった、と言うのです。

  この取れた魚を見て、シモン・ペトロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。シモンは魚を見た時に自分が罪人であることを自覚したのです。それと同時にシモンは変えられたのです。魚とる漁師から、人をとる漁師であるイエス様の真の弟子へと変えられたのです。

 そして、イエス様に対する態度をはじめ、今までの自分を振り返った時に、恐れを感じたのです。シモンの同僚である漁師たちアンデレ、ヤコブ、ヨハネも恐れを感じたのでした。そんなシモンに対して、イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われたのです。

 シモンは、この時から、今までとは全く別の生き方を歩みだすのです。イエス様を舟に乗せる時にはどのような意識で乗せたかははっきりしていませんが、イエス様から「人をとる漁師になる」と言われた時には、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。

 はっきりと何もかも捨てイエス様に従う道を選択したのです。

 シモンはその後、イエス様からペトロと言う名前も与えられ、人をとる漁師として、人としての弱さを持ちながらも、主に従う道を歩み続けたのです。私たちもイエス様に招かれた者として歩み続けて行きたいと思うのであります。

 シモンは、詩編の作者が言っているように、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。その様な歩みを続けて行ったのです。わたしたちもペトロの与えられた御業「人をとる漁師」の御業を引き継いで歩み続けて行きたいものであります。

 

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