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「慈しみ深いものに」

説教「慈しみ深いものに」  

                                   岸 敬雄伝道師

                  詩編18編26~31節 ルカによる福音書6章36~42節

 私たちが憐み深くなるようにと本日の聖書箇所で呼びかけられています。それは、父が慈しみ深いように、私たちも慈しみ深いものになるようにと呼びかけられているのです。師が相であるように、師にならって私たちもそのようになるようにと。御父がどれほど、慈しみ深いのが分かるのは、まさに、私たちのために独り子を与えて下さったほどに憐れみ深いのです。

 では、どの様にすれは御父の様に憐れみ深くなることが出来るのでしょうか。

 まず、初めに言われていることは「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」と言っているのです。人を裁いていると実感されている人がいたとしたらすぐに悔い改めて裁かない様にしていただければそれですむかもしれませんが、ここで問題なのは、自分は人など裁いていないと考えている人なのではないでしょうか。

 本当に裁いていなければそれでよいのですが、さばいているのが分からない、あるいは気が付かなくている人が一番問題となるのです。

 その様な人たちに対して、「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」と言っています。

 イエス様がお嫌いになる人々の中でも、この偽善者と言う言葉は大変きつい言葉だと思います。偽善者とはイエス様が一番お嫌いになっている人々なのだと言えるでしょう

 ここで言われているたとえは非常にわかりやすいでしょう。自分の眼に丸太があるにもかかわらず、人の眼にあるおが屑をとらせろと言うのです。

 自分のあまりに身近にある物は、見えなくなってしまう。それも丸太のように大きなものであっても。眼は体の中でも敏感な器官なのではないでしょうか。そんな敏感な眼に丸太が入っていても感じないとなれば、どれほど鈍感になっているのでしょうか。鈍感なばかりではなく丸太が邪魔ですらなくなっているのでしょうか。イエス様は丸太を取れればはっきり見えると言うのです。

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」と言われるのです。裁かれる事が無い為に、そして許されるために許す様にと言うのです。

つぎに、 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」というのです。自分の秤ではかった分を自分も与えられると言うのです。

 私は昔、この様な事を言われたことがありました。相手の顔は鏡だと言うのです。相手が本心からの笑顔であるならば、それはきっと私自身の顔が笑顔だからだと言うのです。しかし、真の笑顔ではなく、疑いや心配を覆い隠している様な顔であったならば、私自身も今その様な顔をしているのではないかと言うのです。相手にしていることにより自分がしている様子が分かるのではないでしょうか。

 さらに、イエス様はまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」といわれたのです。視力障害者の方に失礼ではないか、その様に考えた事もありましたが、これは一つのことわざとして当時から知られていたものだと言うことでご理解いただければと思います。

 さらに、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」とも言うのです。師を越えられないとすれば、全てのものは師よりも小さい者となってしまいます。学ぶ者はその師を越えることを目標にすると言います。勿論目標を達成することが出来ない人が大半なのかもしれませんが。しかし、ここで言っている師はイエス様のことになります。私たち人間がイエス様を越えることなどもうとうあり得ません。すると、師のようになれると言うのは最高の祝福の言葉にも聞こえてくるのです。その様な勧めの後に、人を裁かぬようにと勧めているのです。人を裁く者ではなく、慈しむ者となるようにと、私たちは、人の眼のおが屑に気が付いた時、自分の眼に丸太がないかをよく注意してみるべきでしょう。より良く見えるようになり、正しいことを行うために。

 そして人を裁かず、十分に与えることによって、主の慈しみの思いを手に入れることが出来るのではないでしょうか。決して主を越えることなどできない私たちですが、主のようになる喜ぶを感じながら、今週も歩んでいきたいと思うのであります。

 

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