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「放蕩息子」

説教「放蕩息子」

岸敬雄伝道師

詩編106編43~46節  ルカによる福音書15章11~32節

 

 ほんじつこの放蕩息子のたとえ話は、有名のたとえ話です。

ある人に息子が二人いました。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言ったのでした。そこで、父親は二人に財産を分けてやったのです。二人に分けやったことを忘れてはいけません。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって彼は食べるにも困り始めた。  それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

  そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。  ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』ここでお等々は完全に悔い改めたのでした。

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。遠くにいて見つけたと言うのは毎日気にしていたことを表しています。

息子は『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』といったのです。ここで言われている指ハトは子どもである印を表しています。

この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。から肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。といって祝宴を始めたのです。

 

 

 

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

  そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

  兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

始めに言われました通りに父親は財産を二人に分けてやっていたのです。それでも自分には仔山羊一匹も下さらなかったと言っているのです。

  ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

  すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

  だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

徴税人や罪人が皆イエス様の話を聞こうとして近寄って来た時に、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしているとは、罪人の仲間になっている、といって批判しているのです。その様に不平を鳴らし始めたファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られたたとえ話の一つであることを頭において読まなければなりません。

 イエス様のことを徴税人や罪人の仲間と見下しているファリサイ派の人々や律法学者は、弟のことを許せずに家の中に入らなかった兄のことなのではないでしょうか。

 父はわざわざそんな兄をなだめるために自ら外に出て兄の元まで来てくれたのです。それなのに、兄は弟のことを出しに使って父の自分に対する態度に文句を言ったのでした。

それに対して父は決して兄を叱ったりはしていません。さとしているのです。

しかし、その結果は何も言われていないのです。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」と言うのがファリサイ派の人々や律法学者の人々の主張でありましょう。そして、「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」といって下さる父親の思いを理解しようとせずに、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」という思いを持っていたのです。

 悔い改めた弟は父がなすがままにされていた弟と、乙等を許せない一見優等生に兄、どちらも罪人であることには違いが無いのです。 言葉は父の聡の言葉で終わっています。兄の回答はありません。それぞれが父親へ回答するようにと求められているようです。回答を求められているのは優等生であることを誇っているファリサイ派の人々や律法学者の人々なのではないでしょうか。はたしてどのような答えを考えたのでしょうか。

 もちろん、この父親とは神様であり、この兄弟は私たち自身であることは確かですが、私たちはどちらに成るのでしょうか。

 そして、悔い改めて父親にすべてをまかせることが出来るようになった弟と、弟のことを許すことが出来ない、自分の祝福を知ることが出来ないのは兄の方なのでしょうか。どちらが罪深いと考えられる出しょうか。どちらも罪深いことは確かです。ただ神様にすべてをおまかせできる人と神様の近くにいても人を許す心に優しさを持てない神様の恵みを本心から感じることのできない人とでは、どちらが幸せに思われるでしょうか。

 主イエス・キリストは全ての人の為の救い主となられたのです。

 

 

 

 

 

 

 

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