「真理の霊」
詩編131編1~3節 ヨハネによる福音書 16章5~15節
岸 敬雄伝道師
詩編131編は、3節しかない短い詩編ですが、その主な内容は、主への信頼であり、最後の3節にある「イスラエルよ、主を待ち望め。」と言う勧告へ集約されて行きます。それも「今も、そしてとこしえに」主を満ち望むようにと言う勧告で締めくくるのです。
この勧告に先立って、驕り高ぶっている自我と、安らかで静かな魂を対照として描いています。さらに、母の胸に居る比喩を用いて安らかな魂の様子を描き出しています。
驕り高ぶっているとは、言ってみれば、放漫、高慢、自己主張の強さを表す表現で、イスラエルでは倫理的伝承の中で警戒を促してきた事柄でした。
その様な態度は、とかく自力本願的な誇りであり、自分を神とするような態度なのであります。そのような自力本願的な立場を取り払うことこそが、安らかな魂を持つ事への道であり、それはまさに幼子がその母の胸に抱かれて安らかに過ごすがごとくの安らぎを与えてくれるものだと言うのであります。その安らかなのは最後の三節にある「主を待ち望め」と言う勧めへと流れこんで行くのです。主を持ち望むことによってこそ安らぎが得られるのです。
主を待ち望むことは、その母と共にいる子供のように安らかにいられるものなのであり、希望に生き、難局に対しても恐れを取り除いて下さるのです。
イエス様が、私たちは子どものようにならなければ神の国に入ることが出来ないと言われたことを思い出すことが出来るのではないでしょうか。
自分を誇るのではなく、主を待ち望み、幼子の様に安らかで静かな魂でいることの大切さと、その様な魂を与えて下さる主への希望を持ち続けることの大切さを忘れてはいけないのです。
木曜日は昇天日でした。復活されたイエス様が40日の間地上におられた後、天へと戻られた日のことです。その後、弟子たちはどうしていたかと言えば、イエス様が約束して下さった聖霊を与えられることを願いつつ、皆で集まってひたすら祈りをしていた様子が伺える場面が、使徒言行録の1章の14節にでてきます。今週は聖霊を与えられるようにと待ち続けていた主日でもあるのです。そこではイスカリオテのユダの後任を決めることなども行われていたようです。
イエス様は、自分が間もなくこの地上へと遣わされた御方、すなわち天父なる神のみもとへと帰らなければならないことを示唆しながら、後に残される弟子たちに向かって、自分が去った後に訪れる「弁護者」、「真理の霊」について語っています。
そして、「弁護者」、「真理の霊」でおられる聖霊が、神様の身元から来れば、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と言われるのです。さらに、罪に対しては「 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」だというのです。
イエス様のことを信じない。神様の思いを信じないことが真の罪だと言うのです。決してこの世の中に人が思っている様な、物を盗むとか、人を騙す様なことを言っているのではありません。
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、」だと言われるのです。イエス様を見なくなり、それでもイエス様への信仰を持つ事こそ義なのである。正しい事なのだと言われるのです。
イエス様がおられる時、イエス様に従っていることではなく、イエス様が父のみもとに戻られて見えなくなった時にこそ、本当の義が分かると言うのです。イエス様に従うかどうかと言う事が問われるのです。イエス様に従わない罪の対極に、イエス様に従う義があると言っても良いのではないでしょうか。
さらにイエス様は、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」というのです。イエス様を信じないこの世を象徴する支配者が断罪されると言われるのです。
そして、今は理解できない事であっても、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」といわれるのです。
この様な、真理を悟らせて下さる、「弁護者」、「真理の霊」である聖霊を与えて下さると言うのです。今は分からないとしても、イエス様が去った後に、聖霊が与えられた時に分かると言うのです。弟子たちの心には、イエス様が自分たちを離れて行かれると言われるので、悲しみでいっぱいに成っていたのでした。そんな悲しみの中にある弟子たちに向かってイエス様は、真理を悟らせて下さる、「弁護者」、「真理の霊」である聖霊を与えて下さると言うのです。
弟子たちがひたすらに捧げていた祈りは、まさに約束された聖霊を与えられることを待って祈っていたのであります。
聖霊は、主を待ち望んでいた人々が待望していた様に、恐れを取り除いて下さり、安らぎをもたらせてくださることを約束してくださっているのです。
私たちに対しても聖霊なる神は一番近くにいて下さり私たちを真理へと導いて、ことごとくのことをさとらせ、平安を与えて下さるのです。
私たちの世界も決して平安な世界ではありませんが、全てをご存じであられる神様が私たちの一番身近に聖霊なる神を与えて下さり、導き見守って下さっているのであります。
決して私たちが肉の弱さに負けて、主を見失った気がしていたとしても、私たちが暗闇で迷っている時にも聖霊なる神は私たちの行く道を指し示してくださるのです。
聖霊に導かれて、主の示されている餅を今週も歩み続けて行きたいものであります。