過去の説教

「神の叱責」

説教「神の叱責」

岸敬雄伝道師

サムエル記下12章1~17節 

マタイによる福音書12章1~9節

 ダビデは、イスラエルを統一した王として後には理想的な王として語られることになります。イエス様も子のダビデの系図からでたと言われているほどです。

 しかし、このダビデと言う人の人生は、波乱万丈だったと言って良いでしょう。一介の羊飼いの少年であったダビデは、ペリシテ人の巨人であるゴリアトを一騎打ちにて倒し、一躍ヒーローとなります。その後、イスラエルの12支族を統一した王となるまでに、戦士の長となり、手柄を挙げてますます人気が大きくなっていくと、先代の王であるサウル王に妬まれて、命を狙われる様にまでなります。

 一時は敵軍で働いていたこともありました。人をだましたこともありました。今の倫理観から言えば問題に思える行動がなかったわけではありませんでした。

 しかし、そんな敵陣の中にいたダビデでさえも、神様は祝福してくださっていたのです。神様の眼から見て悪いことをしているとは、思われなかったのです。

 しかし、本日のバトシバの件に関しては、神様に対してダビデは大きな過ちを犯してしまったのです。それはどの様な罪であるかと言えば、「主を甚だしく軽んじた」と言われているのです。聖書から見て行きましょう。

 「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と言う言葉から今日の物語は始められています。ナタンと言う人物は、この場面で初めて登場した人物です。どこの部族で、どの様の人の息子であるかなど何も紹介されていません。ただ、ナタンは主に遣わされた、それだけが書かれて、まるでそれで充分であると言うように書かれています。後で出てくるときには、神様の御心を告げる者として、預言者ナタンと呼ばれています。そして、次の王となるソロモンに油を注いで王とした預言者としても描かれています。

 しかし、初めて登場した時のナタンはどこの人かもわからない地位も血統も何もわからないただの男として登場しているのです。そのナタンは、ただ神の使いとしてダビデの所に遣わされたのです。ダビデは、イスラエルの12支族すべてを統一した初めての王です。イスラエルにおける一番頂上にいる権力者と言うことになります。そんな権力者に対して、どこの誰とも分からないナタンが対等の立場、いえそれ以上に立場として、一つの譬えを話し出したのです。

 そのたとえ話とは、「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」というのです。

 ダビデ王は怒り、この多く持っていながら子羊を取り上げた男は死刑にすべきだと言い「小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」といったのでした。この答えは正しい答えでした。しかし、この譬え話を終えてナタンは、その悪事を行ったのは、ダビデ王自身だと言うのです。その上で、神様はこう言われる、と言うのです。「あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」と。

 この悪事に対して神様は「わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」と罰を告げるのでした。ダビデの晩年は肉親の反乱などで安楽に暮らす句とは出来なかったのです。

 主から罪を指摘されると、ダビデ王は自分の地位など気にせずに「わたしは主に罪を犯した。」とはっきり自分の罪を認めるのです。すると、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」と言われるのです。罪を攻めている主御自身が罪を取り去られると言われるのです。逆い言えば、許すことが出来たのは主だけだったと言うことになります。

 しかしです、ダビデにとって死を免れて主が罪を取り去って下さったと言っても「主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げられるのです。ダビデは、その子のために神に願い求め、断食したり、彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごしたのでした。

 ダビデが犯した罪は、主を甚だしく軽んじた事だったのです。ダビデは後にはイスラエルの理想の王と言われるようになる人物ですが、その様な人物でも罪を犯してしまったのです。それは、人としての欲望から、神様を軽んじる結果となったのです。

 後に理想の王と思われるダビデ王にも人としての弱さがあったのです。そして、その罪は人に対する罪ばかりではなく、神様に対する罪も問われることになるのです。だからこそ、許しを与えられるのは神様だけなのです。ダビデは、その罪の代価として生まれてきた子供を失うこととなります。どんなに嘆き悲しんでも取り消されることはありませんでした。私たちの罪も神様に許されること以外には肩の荷を下ろすしかないのです。その悔い改めの道がどの様な茨の道であったとしても、その先には希望が見えているのです。

 イエス様の弟子たちが安息日に空腹となり、麦の穂を摘んで食べ始めたのでした。今の私たちでは少し考えられない気がしますが、生の麦をつまんで食べだした、と言うのです。イエス様の時代には、麦畑で手を伸ばして届く範囲の麦の穂を摘んで食べることは許されていたのでした。

 ですから、畑で麦の穂を摘んで食べていたのは、泥棒となるわけではありませんでした。ファリサイ派の人々が問題としていたのは、安息日に労働をしてはならないと言う戒めを破ったと言う事でした。しかし、イエス様が人の子、すなわちイエス様ご自身が主日の主でもあると言うのです。

これは、主人をも違わないと言うことにおいてはダビデと真逆の状態なのです。

私たちは、自分たちの主が誰かを間違えてはいけないのです。イエス様の示された道を歩み続けて行かなければならないのです。

 

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