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憐れみ豊かな神

 

説教「憐れみ豊かな神」

岸敬雄伝道師

詩編149編4~9節  エフェソの信徒への手紙2章1~10節

 

 本日の礼拝は色々な記念日となります。創立記念礼拝ともなりますし、母の日の礼拝と言うことにもなります。教会の誕生日である創立記念日に、教会がなぜあるのかをもう一度思い返すのも大切なのかもしれません。

 そのために、私たちがどの様なものであったのか。それを神様はなぜ救って下さったのか、そしてどの様にしてくださったかを本日の、エフェソの信徒への手紙のなかから聞いていきたいと思います。

 私たちが以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたといいます。もちろん肉体的に死んでいたのではありません。言ってみれば、私たちは霊的に、もっと言うなら神様の眼から見て、死んでいたのです。この霊の死の原因が何かと言えば、自分たちの過ちと罪のために死んでいたと言うのです。

 自分の過ちとは、まさに自分から行ってしまった過ち、それは自分が意識していた、いなかったに関わらず犯してしまった過ち、神様の眼から見て正しくない行為、すなわち罪、神様の思いとかけ離れた行為をイエス様にと出会う前に、罪の中の生活、神様の思いを知らず、神様の意思を従えない生活を送って来たと言うのです。

 自分の意志で行ったか、知らずに行ったか、何方にしろ神様の御心を行う事が出来なかったのです。なぜ、私たちが、その様なことをしてしまったかと言えば、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいたからだと言うのです。

 パウロの見方から言えば、この世は悪事へと人々を導く霊に支配されていると考えていたのです。しかし間違えてはいけないのは、悪しきことを人にさせる霊に関しても決して彼らは全てを自由にできているわけではないと言うことです。

 なぜなら全てを支配さているのは神様御一方だけ何であり、悪しきことを繰り返している霊の働きも神様の許容範囲内で行うことが許されているだけの行為であると言う事であります。

 この霊と言うのは、神に逆らう霊であり悪霊と言っても良いようなものでありましょう。そして、この霊が、この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、であると言うのです。そうなると、この世は堕落した世の中である、そのような認識がパウロにはあるのです。この様な、神様に従わない堕落した世の中を支配しているものに従って、以前は私たちも、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであります。全ての人々は同様に、生まれながら神の怒りを受けるべき者だったのです。

  しかし、そんな私たちに対して神様は、憐れみ豊かな姿で接してくださったのです。そして、この上なく愛してくださったのです。その愛によって、死んでいた私たちを生かしてくださったのです。私たちをどの様に生かしてくださったかと言えば、死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしてくださったのです。イエス様によって命を与えられたのであります。私たちは、この世の命と異なる命永遠のいのちを与えられ、死を乗り越えた希望を与えられたのです。

 そして、この救いは神様による恵みに他ならないのです。決して私たちの行いのよるのではありません。そのことをパウロは強調したいと考えているのです。私たちは、神の恵みによってキリストと共に復活させられて、それもただ復活させられたのではありません。私たちは「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて」くださったと言うのです。

 神様が示された、慈しみ、その限りない豊かな恵みは、イエス・キリストにおいて私たちにお示し下さったものなのであります。そして、その慈しみと限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。これから来る良き世とは、どのような世でありましょうか。それは不従順な者たちの内に今も働く悪霊が支配する世の中ではなく、自分の過ちと罪のために死んでいた世の中ではありません。

 もはや悪が支配するのではない、次の世を現在の状況がいかに困難であろうとも、その先を見通して神様の慈しみと恵にあふれた世の中が、その様な来るべき世として、思い描かれているのです。

 そして、この救いが何によってであるか、この救いの事実が、あなたがたの、「恵みにより、信仰によって救われました。」と恵みと信仰によるものだと言うのです。しかしその信仰も、自らの力によるのではなく、神様の賜物である。救いは神様の賜物だと言うのです。行いによるのではなく、それは、だれも誇ることがないものなのです。

 なぜなら、わたしたちは神様に造られたものであり、しかも、神様が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからだと言うのです。

 本日は札幌中央教会の48周年創立記念礼拝です。神様は私たちを善い技を行うためにお造り下さったのであります。そしてこれまでも、守り導いて下さっていたのです。私たちは、これからも、神様の善い技に参与しつつ歩んでいかなければならないのです。

 そして、善い業を行うために、神様は私たちに札幌中央教会をお委ね下さっているのです。わたしたちは、今までの様に、そしてこれからも、神様の業であるこの善い業を行って歩み続けて行くのでます。

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