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 聖なる者とされ

説教「 聖なる者とされ」

岸敬雄伝道師

詩編148編7~14節   ヨハネによる福音書10編35~42節

 

 この場面は、非常に緊張感が高まっている場面です。なぜユダヤ人たちがイエス様に石を投げつけて殺そうとしているのです。なぜ、イエス様を石で撃ち殺そうとしているのかと言えば、自分のことを『わたしは神の子である』と言って神様を侮辱したからだと言うのです。イエス様は確かに神様でいらっしゃいましたし、神様であられる上に完全な人とでもあられました。そうです。地上において唯一罪を犯す事の無かった人でありました。人であり神、それも、一つにて三の神、三位一体の神、すなわち、父、子、聖霊なる神の御一方であられたのであります。

 しかし、そんなイエス様のことを、イエス様が地上で活動されていた新約聖書が書かれる時代には、本当に理解している人々は少なかったのです。どの様に当時の人々がイエス様のことを見ていたかに関しては、マタイによる福音書の16章の中にあるイエス様と弟子たちの会話の中に見ることができす。

 マタイによる福音書の16章の中で、イエス様はご自分のことを人々はづのように言っているか聞きます。すると弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だと言っていると言うのです。

 人々は、王様に殺されてしまった洗礼者ヨハネが生まれ変わって来たとか、旧約聖書の中で知られている預言者であるエリヤやエレミヤだと言うのです。さらに、他の預言者の一人だと言う人たちもいると言うのです。

 イエス様が、神の業を行うものとして、あるいは神様のご意思を伝える者として預言者なのではないかと考えていたことはうかがい知ることはできます。

 それに対して、シモン・ペトロは、「メシア、生ける神の子です」と正しい答えを答えたのでした。それに対してイエス様は、今この正しいお答えを示して下さったのは、天父なる神様だと言われたのです。

 「メシア、生ける神の子です」だと言う答えを知るには、神様によって示されなければ人は知る事が出来ないと言うのです。本日の聖書箇所でも、同様に人の知識でイエス様の真実を知ることが困難であり、神様の力によってのみ知ることが出来ることを私たちは悟る事が出来るのではないでしょうか。

 神様から示されていないユダヤ人たちにとっては、イエス様のことを真実に理解する事が出来ていなかったのです。イエス様は、『わたしは神の子である』と言って神様を侮辱したと言われている本日の場面で、イエス様はユダヤ人たちに対して、「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。」というのです。これは詩編の82編6節の引用と思われますが、神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている、神様の言葉を受けて信じた人々ですら神々と言われていると言うのであります。

 ましてや、イエス様は、自分は神様から聖なる者とされた者として世に遣わされている者なのだと主張されるのです。そして、自分が行っている業が神の業だと言うのです。さらに、自分が行っている業が神の業であるとするならば自分を信じなくても、自分が行っている神の業を信じるようにと言うのです。「そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と言われるのです。

 父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることとは、まさに御父と御子が一体であることを示しています。聖霊はここには出てきませんが、私たちが信じている三位一体の考え方の基となる考えが示されているのではないでしょうか。

 先にも言いましたが、シモン・ペトロは、イエス様に対して「メシア、生ける神の子です」と正しい答えをしましたが、ある意味で、イエス様のことを弟子たちですら正確に理解出来たのは、イエス様が復活された後、復活のイエス様と出会った後のことになります。

 私たちが、主イエス・キリストが神の独り子である。イエス・キリストは父なる神と同じく神であられると共に、全き人となられた御方である。この事実は私たちの信仰の基礎をつくっている事実です。

 私たちもこの事実を自分の知識として知ったのではなく、神様から示されてはじめて知ったと言うのも確かでありましょう。それと共に私たちはイエス様が行われたその業を、聖書を通して知る事が出来たのです。

 私たちも、イエス様を知ることによって教会に入る時に、神様から「聖なる者とされ」「世に遣わされた」者なのです。イエス様を信じた時に聖なる者とされたのであります。イエス様を信じる者となった時に確かに変えられたのです。

 私たちは、イエス様を見るような肉による経験をする事は出来ません。しかし、私たちはしっかりとイエス様のことを知る事が出来るのです。それと同様に自分の変えられた姿を自覚できないかもしれませんが、私たちはしっかれ変えられているのです。

それをなぜ信じる事が出来るのでしょうか。それは、イエス様が行って下さった業によって、知る事が出来るのです。聖書を通して知る事が出来るのです。聖霊が証してくださるから知る事が出来るのです。

そして、神様が聖霊を通して私たちに示してくださるからこそ、私たちは知る事が出来るのです。

 私たちは、このイエス様を知ることこそが、私たちの信仰の源であり。信仰生活の活力なのです。

私たちはこの活力により、どの様な苦難に満ちているように思える世の中であろうとも確かに歩み続けて行く事が出来るのであります。

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