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良い羊飼い

 「良い羊飼い」 

岸敬雄伝道師

 

詩編35編25~28節 ヨハネによる福音書10章11~16節

 本日読みました聖書箇所は、ファリサイ派の人々に対してイエス様が話されたお話しの一部になります。イエス様は自分がどの様なものであるかを羊と羊飼いに譬えて、そしてイエス様を通して以外救いはないことを示されています。

 イエス様は「私は門であり、私を通ってはいるものは救われる。」とはっきり言っておられます。私たちの救いに至る道はたった一つ、イエス様であると指し示しているのです。私たちは、イエス様を通ることによって救われるのです。

 そして、ファリサイ派の人々に対してイエス様は、盗人とご自分とを比べておられます。盗賊が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならないといわれるのです。この盗賊とは、当時の支配階級のファリサイ派の人々が庶民の人々を搾取していることを前提に置いて話されていたのかもしれません。その盗賊とは違い、イエス様は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」とはっきりとご自分の目的を言われておられます。

 イエス様は、自分を門に例えた後に、今度は良い羊飼いになぞらえています。そして良い羊飼いと、雇われて居る羊飼いを比べながら話を進めているのです。そんな中で自分のことを、良い羊飼いであると2度も言われ、強調されているのです。

 雇われた羊飼いは、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げだすというのです。すると、狼は羊を奪い、また追い散らすことになるのです。 彼らは雇い人で、羊のことを心にかけていないからそのような事が起こるとイエス様は言うのです。

 逆に良い羊飼いであるイエス様は、羊に対して心がると言うことになります。もちろんイエス様が言われている羊とは私たちである事は明らかです。イエス様は私たちに対して心があり、イエス様は自分の羊である私たちのために「命を捨てる」と言われるのです。そして、私たちが「命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われるのであります。

 そして、イエス様はご自分の羊を知っていると言われるのです。私たちがイエス様のことを知っていると言われる前にイエス様の方が私たちのことを知って下さっていると言われるのです。

それは、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」とまでいわれるのです。私たちとイエス様とに関係を、天父とイエス様の関係とに等しいほどに親しい関係であると言って下さっているのです。

 そして「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」といわれます。羊である私たちは、一人の羊飼いであるイエス様に導かれて、一つの群れとなるのです。羊は、まさに良い羊飼の声を聴いて導かれて一つとなるのです。

 羊は一つになって、牧草を食べる事が出来るのです。私たちはイエス様を通って集められて、私たちの霊の糧である牧草を教会で食べさせていただいているのです。

 それは一人で食べているわけではありません、皆で食べているのです。それはイエス様に導かれた者が、イエス様が命までかけて呼び集められた間柄の人々と共に牧草を食べているのです。

さらにイエス様は、最後に業が終わったものではなく現代進行形の業であることを、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言う言い方で表されているのです。ここに集えていない羊が、今福音を求めている人が一日でも早く教会へと導かれますように願うものです。

 本日はこの礼拝のすぐ後に総会を開きます。イエス様に呼び集められた者として、イエス様の体と言われる教会に集まり、この教会をイエス様の思いに従って、どの様にこの一年間運営して行くべきかを話し合います。

 今年は何時もの年の様に、時間を取って開くことが出来ませんがイエス様に呼び集められた者たちとして、イエス様によって繋がっている兄弟姉妹としての喜びを確認できれば幸いだと思っています。

 

 

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