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平和があるように

説教「平和があるように」

                                       岸敬雄伝道師

詩編 16編 1~11節 ヨハネによる福音書 20章19~23節

 本日起こった出来事は、「その日、すなわち週の初め日、」すなわちイエス様が復活された日の夕方の出来事だと言うのです。

 ヨハネによる福音書では、他の福音書では何日もの間で起きた出来事を一日で起きた出来事のように集約して描いています。

 本日の聖書箇所をヨハネによる福音書のペンテコステ、などと呼ばれることがあります。イエス様が弟子たちに聖霊を与えて世の中へと遣わしているからです。

本日の場面でイエス様が現れたのは、弟子たちが鍵をかけて部屋に閉じこもっていた部屋でした。わざわざ部屋の途に鍵が掛けられていたことをことさらに強調しているのかと言えば、その理由の 一つには、聖書にも書かれているように、弟子たちがユダヤ人によっての迫害を畏れていたと言うことであります。

弟子たちはイエス様が十時間かけられて処刑されたように、自分たちも依田屋人によって迫害を受けるのではないかと心配していたのです。しかし、イエス様が十字架に掛った直後に迫害があったとのキロ期はありません。本格的な迫害の記録は、最初の殉教者と言われるステファノの十んきょうの痕と言うことになります。それでも、弟子たちは恐れていたのです。イエス様を裏切り、見捨てて逃げ出してしまった弱さもあいまって、恐怖心が膨れ上がっていたのでありましょう。

 それと、二つ目には、イエス様が、私たちが分かる通常の方法以外の方法で現れたことを示すためであり、これは超自然的な形で現れたことを示しています。

 そして、イエス様は部屋に入ってきて一番初めに行ったのは部屋の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われる事でした。

 弟子たちにとって一番今必要なものは平和だったのではないでしょうか。ユダヤ人たちからの迫害に対する恐れ、自分たちがすべてを捨ててついてきた師であり、神の御子であるイエス・キリスト、すなわち我らの救い主と考えていたイエス様を見捨ててしまった罪悪感と絶望感、これから先どの様にして行けば良いのかわからない、これから歩んでいく道が見えなくなってしまった、など、ありとあらゆる不安感を弟子たちは抱いていたのでます。その様な不安の中にあった弟子たちに、イエス様は「平和があるように」と言うのであります。

 ここでイエス様が言われる平和の源泉がどこあるのかと言えば、イエス様が以前から言い続けられていたように、確かにイエス様が復活されたことにあるのです。だからこそ、イエス様はご自分が復活されたことを顕すために、「手とわき腹とをお見せになった」のでした。復活したイエス様とお会いする事となった弟子たちは、「主を見て喜んだ。」のでした。この喜んだという言葉には、それまでの恐れや自分たちの主を裏切ったことに対する罪悪難など、自分たちに取りついていた不安から解放された様子が端的に示されています。

 そんな弟子たちに、イエス様は重ねて「あなたがたに平和があるように。」と言われるのであります。その上で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と派遣の命令を弟子たちに与えるのです。イエス様が御父のよってこの地上に遣わされたように弟子たちをこの現世へと遣わすのです。その為に『彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。」と言われたのです。弟子たちをこの世に送り出す時に再び不安の中に置き去りにしないために、イエス様は聖霊を与えられたのです。

 さらに、ご自分に与えられていた権威であるつにを許す権威を「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言う様に言われて与えたのです。

 弟子たちの様子は、主を見て喜んだ、以外に書かれていません。その後の様子は一切書かれていません。この後の物語は、たまたまこの場にはいなかったトマスの話へと移ります。

 トマスとの話に移った時に弟子たちは、復活した主を信じる者であり、恐れを克服した者へと変えられていたのです。弟子たちは、ほんのわずかの間に確実の変えられたのです。私たちに対してもイエス様は、「平安あれ」と言って下さっています。私たちは現在目に見えない相手に対して恐れを抱いて日々生活していますが、決して私たちにとっての不安は新型コロナウイルスばかりではありません。私たちの生活、それ自身であったり、加齢であったり、その他にも色々な不安があるかもしれません。それだとしても、それらの不安に対しても、イエス様は「平安あれ」と言ってくださっているのです。この平安のもとは、主イエス・キリストの復活なのです。そして私たちを力づけてくれるのは、イエス様が与えて下さる聖霊なる神なのです。この聖霊についてヨハネは弁護者と言っています。私たちの弱さの弁護をしてくださり、私たちの必要なものを悟らせ知らしめ導いて下さる方なのです。私たちはどんな不安がある世界であるとしても聖霊に導かれて確かに歩き続けて行くことが許されているのであります。 

 

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