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ヤコブとヨハネの願い

説教「ヤコブとヨハネの願い」

 岸敬雄伝道師

            詩編 102編28~29節  マルコによる福音書 10 章35~45節

 詩編の作者は、『しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません。」『 あなたの僕らの末は住むところを得 子孫は御前に固く立てられるでしょう。』と、将来に向かっての希望を述べています。詩人は最後に希望を述べていますが、希望を述べる前に「しかし」といっています。希望を示す前にどのようなことがあったのでしょうか。それはもう少し前の部分から呼んでみなければならなかったようです。24節から読んでみましょう。

 24節以下には、自分の力が道半ばで衰え、人生が短くされようとしていると詩人は言うのです。おそらくこの詩の作者は自分では思ってもいなかった病にかかり命を失おうとしていると思われます。

 本来なら自分の人生はもっと長くあるはずなのに、今にも途中で閉ざされようとしていると思っていることは確かです。だからこそ神様に自分を人生の半ばにあって取り去らない様にと懇願しているのであります。

 神様が御手をもって行われた、大地の基を据えることも、天を造られた事業ですら滅びると言っているのです。しかし、神様は永らえる、神様の歳月は永遠に続くものだと訴えているのであります。

 神様の行われることは、決して絶える事が無いと言っているのであります。自分の人生の途中で訪れようとしている時間の中ではなく、神様の時間の中で「あなたの僕らの末は住むところを得 子孫は御前に固く立てられる」ことに望みを持っているのであります。

 神様の行いは決して変わる事が無いのです。その中に御前に立つ望みをもっているのです。それに対して、本日のヤコブとヨハネはどの様な望みを抱いていたのでしょうか。

 それは、イエス様が栄光をお受けになる時、右と左に座らせてほしいと言うのであります。他の弟子たちがその話を聞いて怒ったというのですから、この二人が望んでいたのは、イエス様が栄光をお受けになる時には、自分たちを最高位の席に座らせてほしいと願ったことは間違いありません。その様な望みに対して他の弟子たちが怒ったのは、自分たちも同等か、あるいはそれ以上の地位に就くきたいと考えていたからに違いありません。

 その様な弟子たちに対してイエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」といわれたのです。

 そして、イエス様が受けなければならない洗礼とは、人々から見捨てられ十字架におかかりになり人々の身代わりとしてすべての罪をお引き受けになると言うことであります。

 そしてあのゲッセマネで、あの苦き杯を飲むことができるのかと言ったのです。この問いかけに、ヤコブとヨハネは「できます」とはっきり答えているのです。この答えからでも、イエス様が言われた洗礼や盃に意味を理解できていなかったことが分かります。この様な答えに対してイエス様は、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と言われたのであります。

 考えてみると、この二人のその後の運命は不思議な気がします。ヤコブは聖書に出てくる最初の殉教者であるステファノの殉教の後に起きた迫害でヘロデ王によって切り殺された、と聖書には書かれとぃます。ヨハネはこの迫害の時みんなが散り散りになってエルサレムを逃れた時にはペトロと共に宣教の旅に出てたと聖書にはあります。その後に関しては、伝説に頼ることになりますが、大変に長生きしたと言われています。

 二人は、それぞれのかたちで杯を飲み、イエス様の洗礼を受けることとなったのではないでしょうか。

 自分達がイエス様が栄光をお受けになった時に高い地位に居たいと望んでいた弟子たちに対して、イエス様は、「異邦人とは違い仕える者となるように」と言われるのです。そしてイエス様は、自分を信じる全ての人々のための身代金となると言われるのであります。

 確かに、この身代金が誰に払われるのかについては問題があるかもしれませんが、私たちは、罪の身代金としてイエス様が支払われることによって罪に縛られた者から買い戻された者であると言えるのです。

 イエス様の血潮と十字架の贖いのよって私たちは罪より贖われ、限りない恵みの幸が与えられるのであります。

 復活祭まであと2週間となりましたが、イエス様の苦難とそれによって与えられた幸を思いつつ、イエス様の苦難の道に頼る喜びを持って、今週もまた一週間を過ごしていきたいと願うのであります。

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