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子ロバに乗って

説教「子ロバに乗って」

詩編 118編25~26節 ヨハネによる福音書 12 章12~19節

岸敬雄伝道師

 今週の主日礼拝は棕櫚の主日といわれます。詩編で言われているように、「 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と言われている様に、主の御名によってイエス様は来られた様子を詩編では歌われています。しかし、イエス様がエルサレムに来られたのを迎えた人々は、真に主の名によって来られた方であることを理解してはいなかったようです。

 イエス様がエルサレムに来られると聞いた時に、人々は歓声を上げてなつめやしの枝を持ってきて迎えに出たのでした。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と言って踊り叫びながらイエス様を迎えたのでした。

 そして、イエスがろばの子にお乗りになってエルサレルに入城されたのは、 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」とヨハネは言い、これは旧約聖書の言われていたことだと言うのであります。どこの言われているかと言えば、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。

 イエス様を出迎えた民衆がナツメヤシの葉を振り回して飛び跳ねている様子は、ダビデが契約の箱の前で力の限りに飛び跳ねて踊ったっている様子を想起させます。

 旧約に言っているようにエルサレム自身が、歓呼の声をあげているようすをファリサイ派の人々の言葉を通してヨハネは「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」とイエス様を世を挙げて出迎えている様子を示しています。

 なぜこのように、熱狂的に民衆がイエス様をうかえ入れた様子を旧約聖書の内容と比べてみると、イエス様が神に従い、勝利を与えられた者であることは確かですが、しかし、イエス様の態度は旧約聖書に書かれているように「高ぶること」はありませんでしたし、子ロバに乗って来ることが象徴しているように、平和に君としてエルサレムへと入って来られたことをイエス様を迎えた群衆は理解していなかったのです。人々の期待していたのは、だいぶ違うところにあったのもまた確かだったのでありましょう。

 民衆が待ち望んでいたのは当時の支配者であるローマから自分たちを解放してくれる救世主だったのです。この世的に強い、言い換えれば武力的に強い救世主を望んでいたのであります。

 イエス様の真の姿については、弟子たちですら、最初はこれらのことが分からなかったのです。イエス様が栄光を受けられたとき、旧約聖書に書かれたことを思い出したのだとヨハネは言うのです。弟子たちですらイエス様のことを理解していなかったのは確かです。

 私たちは2週間前にゲッセマネでのイエス様の祈りを聖書から聞きたした。そして先週はそれより少し前のヤコブとヨハネがイエス様が栄光をお受けになる時に自分たちに一番高い地位を与えることを願ったことも聖書から聞きました。時間を逆に進んでいるようですが、今言った二つの出来事は、これからイースターまでの一週間の間に起こることであり、言ってみれば今日の出来事が最初の出来事となります。

 教会での暦で言えば今週の木曜日は、最後の晩餐でイエス様が弟子たちの足を洗いゲッセマネの園で祈りを捧げられた日とされ、それを記念して、洗足礼拝が行われ、最後の晩餐を記念して聖餐式が行われる教会もありますし、翌日の金曜日の夜には受難日礼拝を守る教会もあります。

 イエス様が十字架上で血潮をながされ、苦難の絶頂を迎えた後に黄泉まで下ってくださった事を思って礼拝を捧げます。

 イエス様のその様な苦難の始めが、群衆の熱狂的な形での出迎えなのです。その後一週間もたたない間に、十字架にかけろと騒ぎたてるように群衆は変わっていくのであります。何とも人の心の移り変わりに早いことを感じますが、敢えて聖書はそのような人間の姿を描き出しているのであります。

私たちはこの聖書から聞き取って、イエス様に従って今週も、そしてこの一年も救いに至る達かな道を歩み続けて行きたいものであります。

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