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ゲツセマネの祈り

ゲツセマネの祈り

 岸敬雄伝道師

詩編    88編14~19節    マタイによる福音書 26章36~46節

 本日は、イエス様のゲツセマネの祈りをマタイの福音書を中心に聞いていきたいと思います。

 イエス様は、祈るために弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来ました。ここは、イエス様が祈りをささげるために利用していた場所でありました。しかし、今日は特別の祈りを捧げるために弟子たちと一緒にゲツセマネを訪れたのです。

 弟子たちと共にゲツセマネの園に到着すると「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われたのでした。そして、ペトロおよびゼベダイの子二人すなわち、ヨハネとヤコブを伴もなってさらに進んでいかれたのであります。イエス様は3人を伴って進んでいく途中に、悲しみもだえ始められたのでした。そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言うのであります。

 イエス様はうつ伏せになり、孤独な祈りがささげられていきます。その内容としては、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言う様に耐え難い苦しみの中にありながらも自分の意志は横においてあくまで御父のご意思に従う姿勢を貫いておられるのです。。

 イエス様が苦しみながら祈りを捧げているにも関わらず、弟子たちは目を覚ましていることが出来ないのであります。イエス様が弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたのです。イエス様は弟子の代表としてペトロに言われたのでした。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われるのです。

 イエス様は、二度目に向こうへ行って祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますようにと、自分が飲まざるおえない杯であることを知りながらも尻込みされていたイエス様ではありましたが、「あなたの御心が行われますように」と、御父に最後まで従い通す姿勢を示されたのです。それなのに、 再び戻って御覧になると、弟子たちは依然眠っていたのでした。「ひどく眠かったのである。」と書かれています。イエス様は、もはやめ眠っている弟子たちに声も欠けられずに三度目の祈りに向い、同じ言葉で祈られました。

 ここで、弟子たちの弱さが強調されています。そんな弟子たちに対してイエス様は、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言われるのです。

 裏切るものとはイスカリオテのユダのことであるのは確かでありますが、しかし、このゲツセマネでイエス様を裏切るのはイスカリオテのユダだけではありませんでした。殺されるとしてもイエス様についていくと言っていた弟子たちが、すべてイエス様を裏切って蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまうのです。

 イエス様の思いは詩編の88編に作者の様に「愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と言っているような思いを感じておられたのではないでしょうか。その様な苦しみは、神様の独り子であり、完全な人間であり、完全な神でもあられる主イエス・キリストでなければ飲み干すことが出来ない盃だったのです。そして、この苦き杯の中に満たされているのは、私たちの罪なのであります。

 イエス様の天父なる神に対する従順な態度に対して、起きているようにと言われても肉の弱さに負けて眠り込んでしまう、肉の弱さをさらけ出してしまっている、更には、イエス様を裏切ってしまい逃げ出してしまう罪深い弟子の姿を聖書は描かれています。

 この弟子たちの姿こそが私たちの本質の姿なのだと聖書は伝えているのではないでしょうか。そして、そのような姿は、弟子たちだけにものではなく、聖書を読んでいる私たち自身の姿でもあると聖書は伝えているのであります。この様な罪深い私たちのために、イエス様はこの苦い杯を飲み干してくださったのであります。イエス様は、十字架の上で私たちの罪を贖って下さった、この恵みの大きさを弟子たちの罪深さは私たちのよりリアルに示しています。

 この受難節の季節に、私たちは自分の罪をもう一度顧みて、自分の罪深さを知ることによって、イエス様が与えて下さった恵みの大きさを再確認し、この恵みの大きさに心から感謝しつつ今週一週間も歩み続けて行きたいものであります。

 

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