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弟子の覚悟

弟子の覚悟

        列王記上     19章19~21節   ルカによる福音書  9章57~62節

岸敬雄伝道師

 

 本日は、ルカによる福音書から弟子の覚悟について聞いていきたいと思います。ルカによる福音書では3つの短い会話から弟子の覚悟が示されています。

 さらに、ルカによる福音書では、本日読まれました旧約聖書 列王記上19章に出てくるエリヤがエリシャを自分の後継者として召しだした時の物語が色濃く反映されていると言われています。

 イエス様は、弟子の覚悟について語られた最初に、弟子と思われる人から「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と語り掛けられました。これは、まさにイエス様に対して忠実を言い表しているように感じます。しかし、この弟子と思われる人からの申し出に対してイエス様は、生活の安定を望んでいたことが潜んでいることをイエス様は理解していたのです。

 それは、イエス様のお答えになったお言葉の内容から類推する事が出来ます。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」といわれるのです。

 イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。」と言う譬えを用いて、獣や鳥でさえもそれぞれに家や家庭があるのに「人の子には枕する所もない」、言い換えれば安らかに睡眠をとる所すらないと言われているのです。イエス様は安らかに眠ることすらできない悲惨な状態である、というのです。

 イエス様の弟子となることは生活の安定を保証されるというようなものではない。言い換えれば、イエス様の弟子となると言う事の目的は、生活の安定を求めるためではないと言うのであります。

 次の人に対しては、イエス様の方から「わたしに従いなさい」と言われたのです。するとイエス様からついてくるようにと求められた人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのでした。

 それに対してイエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」というのです。親を葬ることは、モーセの十戒にある父母を敬うようにとの戒めに通じます。十戒に対する違反は重大な罪を犯すことになるのです。

 それにも関わらずにイエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」というのです。イエス様が言われている、死んでいる者たちとは、福音に死んでいる人々のこと、すなわち福音を信じていない人たちのことであり、その様な人たちに死者を葬らせておけ、と言うのです。

 そして、あなたは「行って、神の国を言い広めなさい」というのです。神の国を言い広めることは、律法の戒めに従うより尊い業なのであると言うのです。

 三番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言ったのでした。

 エリヤはエリシャが家族や知り合いと別れを惜しむ機会を与えましたが、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのでした。目標を定めた後に、昔のことを顧みる者は神の国にはふさわしくないと言うのであります。

 イエス様の弟子であることは、それまでの生活を振り向くことは相応しくないと言うのであります。イエス様が言われる弟子の覚悟は大変厳しいものだと思います。もしも、その様な状況に現実的に出会ったらイエス様は本当に実践するように求めたかどうかは分かりませんが、私たちのその様な覚悟をしておくようにと望まれていることは確かです。

 なぜ弟子として、これほどまでの覚悟をする必要があるのでしょうか。この様な厳しい弟子の覚悟を考える時に、反対にもしこのように厳しい弟子の覚悟が出来ていたならば、どの様な災いにも耐えられるという事を伝えているのではないでしょうか。

 安定した生活や、大切な人を失ったり、別れを告げなければならないとしても、イエス様を信じ従う者には、しっかりとした道標が与えられて、歩むべき道が示されるのです。

 私たちは、イエス様の弟子となることによって、苦難の中も歩み続ける力を与えられ、主の十字架と言う目標を仰ぎ見ながら歩み続けて行く事が出来るのです。この歩みは、この世の中の富や安定などより素晴らしい恵みなのですから。

 

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