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永遠のいのちを得る

説教「永遠のいのちを得る」

                 民数記21編4~9節  ヨハネによる福音書3章14~21節

                                        岸 敬雄伝道師

 今回のイエス様の話し相手は、ニコデモと言う人です。ニコデモが確かにイエス様の弟子と成ったかどうかについては定かではありませんが、ニコデモは、イエス様に対して好意を持っていたことは確かでしょう。そのことをが分かるのは、この後にニコデモが取った行動からしてす。ニコデモと言う人はヨハネによる福音書にしか出てこない人物ですが、ヨハネによる福音書7章51節で、 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と言ってイエス様をかばい、イエス様が十字架に掛って亡くなられた後、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んで葬った。とあります。

 ニコデモは、「ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員であった。」と紹介されています。

 ファリサイ派と言うことは、律法に詳しく、その上で律法を守ることに厳格な人であったことがうかがえます。さらに議員でもあったと言うのですから社会的な地位も高く、信用もあった人物であることは確かでありましょう。

そんなニコデモは、イエス様のことを「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師」であると、言っています。この言葉は確かにイエス様のことを先生として尊敬していたことが伺えます。

 律法にも精通していて人々の指導者であるはずのニコデモに対してイエス様は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言うのです。

 イエス様が言われている「モーセが荒れ野で蛇を上げた」事件は、本日読みました民数記21編4~9節に出てくる、出エジプトの時に出来事でした。

 本来イスラエルの民は神様に導かれて約束の地へと導き入れられるはずでした。ところが、約束の地を偵察に行った者たちのほとんどが先住民に恐れを感じて、神様が約束された地へと進軍して行くことをためらったのです。そのため、神様から与えられるはずになっていた約束の地へ入る事が出来ませんでした。約束の地へ進軍することをためらった世代のほとんどの人々が死に絶えてしまうまでイスラエルの民は40年の間荒れ野をさ迷うことになってしまったのです。

 荒れ野の旅を送っている間にイスラエルの民は、神様に対して苦情を言ってしまい、懲らしめを受ける経験をしました。その様な苦難の経験の一つが毒蛇の経験だったと言ってよいでしょう。

 民は、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言ったのでした。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と。すると神様は民の不平を取り除くことはなさらずに、逆に民の中に「炎の蛇を民に向かって送られた」のでした。おそらく炎の蛇とは毒蛇のことであろうと思われますが、蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た、というのです。すると民は自分たちが言っていた問題が解決したのではなく、むしろ自分たちが思っていた最悪の状態が起きたのに驚いて、『民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」』と願い出たのでした。

 モーセは民のために主に祈ったのでした。すると、 主はモーセに言われたのです。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」

 モーセは神様がお命じなった通りに、青銅で造った一つの蛇を旗竿の先に掲げたのでした。この青銅で造った一つの蛇を仰いだものは命を得た。と言うのです。青銅の蛇を仰ぎみるようにとの神様の命令に従った人たちは蛇に咬まれても死ぬことから免れて生き続ける事が出来たのです。

 この青銅の蛇に何らかの力があったわけではありません。青銅の蛇を仰ぎむるようにと言われた神様の言いつけを守ったことに効力があったのであります。

 しかし、イエス様は、この青銅の蛇があげられることは、イエス様が十字架にあげられることを象徴しているのだと言われるのです。

 だからこそ、イエス様は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言われるのであります。そして、この出来事の意義として「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言うのです。

 まーせがあげた蛇を見上げた人々は命を落とすことなく救われましたが、イエス様の十字架によって、イエス様を信じる人々は永遠のいのちを得ると言うのです。モーセの時のいのちは蛇からは救われてもいずれは終わりを羽化得る命でしたが、イエス様を信じる者に与えられるのは死をも超えた永遠のいのちだと言うのです。なぜそのようなことが起こるのでありましょうか。その理由としてイエス様は、「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言うのであります。

 独り子を十字架にかけてまで、この世を愛してくださっていると言うのです。さらに、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言い、イエス様は救い主として地上に来られたと言うのです。

  さらに、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」とイエス様は裁き串でもあられるけれども、裁かれるべきものは自分ですでに裁きを定めていると言うのであります。

 私たちのイエス様が十字架に向かわれる道を歩まれている苦難の日々に思いをはせるレントのこの時期の今一度十字架の恵みを顧みて、その犠牲の大きさと神の愛の大きさを再確認して恵みに感謝して歩み続けて参りたいと思うのです。

 

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