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いかに幸いなことか

説教「いかに幸いなことか」

 岸敬雄伝道師

                  詩編 128編1~6節 ルカによる福音書   8章4~15節

 

 

 128:2 あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。

 128:3 妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。

 128:4 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。

 この詩編128編の詩編は「都に上る歌」の歌集の9番目で、巡礼歌だと言われています。この詩においては、人生の二つの基本的な領域においての祝福が語られています。

 それはまず、一つ目としては、人が働くことについての祝福です。神は創生記で、3章19節でアダムに対して、「 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。」と言われています。その苦労する労働においても、その労働を完成させ、その業を満足の行くものとしてくださるのは神様の祝福だと、この詩編では言うのであります。さらに二つ目は、結婚について述べられています。創世記の2章24節で「 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と言われていて、人は結婚し、子どもの誕生、そして、その成長をみる家庭の中においても神の祝福を見る事が出来るのだと言うのです。

 勿論、現代では家族のかたちも色々で、決して結婚していないからと言って不幸なことであると考える必要は無いと思います。

 しかし、詩編の作者は神様の作られた秩序としての家族、その単位の中において、神様から与えられる幸いについて言っているのです。

 この詩編128編では、神様が定められた規律に沿って、その結果として祝福にとんだ人生が送れると言うことを示唆しているものであります。逆に言えば神様からの祝福の無い人生は、不完全であり、失意に落ち込みかねないものであると言っているのであります。

「いかに幸いなことか」この呼びかけは主を恐れる人に対する普遍的な言い回しとして使われています。

いかに幸いなことか、比べる事が出来ぬほどの幸いなこと、それは、「主を畏れ、主の道に歩む人」に与えられた幸いであり、いかに幸いとなれる人の条件として、「主を畏れ、主の道に歩む人」と語りかけられているのであります。

 この幸いの理由が、労働する人たち全体なのに対して、そしてさらに、あなたと呼びかけられている個人に向けられているのであり、「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」と家族に与えられている祝福が語られるのです。

 豊かに房を付けたぶどうは、やはり豊かさの象徴でしょうか。そして、オリーブの若木は幸せや平和を象徴しているのではないでしょうか。もちろん現代だと妻が家の奥にいることへの抵抗を感じる人もいて、次代に合わないと感じるかもしれませんが。妻の力や健やかに育つ子供は、家族の幸せの両輪ということになるのではないでしょうか。

詩人は家族の健やかさも、神から祝福されたものであることを、生き生きと描き出しているのです。

 さらに突き詰めて言うならば、詩人が言っているように恵みの源は、主を畏れることであり、人は主を畏れることによって祝福されるのであります。

 そして、本日新約聖書の「種を蒔く人」のたとえ話もよく聞くたとえ話であります。この譬え話の内容についてはイエス様ご自身が解説してくださっていますが、皆さんは自分をどこに身を置いて読まれるでしょうか。神様の御言葉を受けてもそれをどの様に扱うか、もしも、道端に落ちたのか、石地に落ちたのか、茨の中に落ちたのか、一ヵ所に落ちた状況だけだとしたら、どの様に悔い改めたとしても取り返しがつかなくなってしまいます。私たちの思いは、この道端に落ちたのか、石地に落ちたのか、茨なのかそれともよい地にまかれたのかを行き来しているのではないでしょうか。 その中でも、本来、私たちは良い土地に落ちた種であり、立派に実を結ぶものとされているのではないでしょうか。立派な実を結ぶには、善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」ことは必要であります。

 旧約聖書の詩編では、「主を畏れること」といわれ、種まきの譬えでは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐」することが祝福される人の条件であると言われます。

 今週もまた主を畏れて、良い心度見言葉を聞いてよく守り、忍耐して進んでまいりましょう。それは決して苦しい道ではなく、恵み大きさ祝いの道なのですから。

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