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カナの婚礼

説教「カナの婚礼」

 岸敬雄伝道師

詩編133編         1~3節

ヨハネによる福音書   2章1~11節

 カナの婚礼においての奇跡では、初めに「三日目」と書かれています。洗礼者ヨハネが居たペタニアから出発して、ガリラヤに到着するまで三日を費やしたと言うのでした。そのガリラヤのカナであった婚礼でイエス様の母であるマリアは接待役を担っていたようです。そこにイエス様と弟子たちは共に招かれていたと言うのです。その頃のイエス様がおられた地方では、結婚式は普通7日間行われていたと言います。そんな結婚式が盛り上がっている最中にお酒が無くなってしまったと言うのです。

 母マリアは、イエス様に対して「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのです。母マリアは、この婚礼の祝宴に対して責任を持って働いていたことがうかがえますが、どうして弟子と共に客として訪れていたイエス様に対して、「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのでしょうか。普通は、共に働いている人々に対して、酒が無くなれば用意するように言いつけるべきではないでしょうか。

 この場面では、イエス様が奇跡を行える方であり、マリアは奇跡を求めたと解されています。それに対してイエス様の答えは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」とまことに冷たい言い方で返答をされたのでした。さらに、「わたしとどんなかかわりがあるのです。」とまで言い切るのです。そして、「わたしの時はまだ来ていません。」と自分の時は、天父との関わりに関係していることを示されるのです。マリアは的外れのことを期待している。奇跡は天父なる神様との関係において行われるものなのであります。

 それであるにもかかわらず、母マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、期待を捨てないのです。

 その後に行われる奇跡は、淡々と描かれているようにすら感じますが、その中でも水を一杯に入れると言う事に神の恵みの豊かさを見人々もいます。しかし、この奇跡により、イエス様が栄光を現されたことを知り、イエス様を信じさせられたのは弟子たちだけだったのであります。

 しかし、この少数に見える栄光を知る者は詩編で歌われている者たちの様な喜びを巻き起こすことになるのです。それはイエス様がこの地上を離れられた後になりますが、確実に起こされるのであります。

 本日読まれましたもう一か所の詩編の133編は、短い詩編ではありますが、都に上る歌の第14番目に当たり。祝福の場所としてのシオンへと昇って行く時の詩です。そして、この詩は、巡礼者たちがシオンにおいて一つの家族として集う事の中で経験した恵みの喜びを歌ったものです。最初の1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」と言うのが、この詩の主文となります。

 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り落ちる程、頭に十二分に香油が注がれるということは、客を丁寧にもてなしている歓迎を反映しているものです。

さらに、祝福される場はシオンを越えて、兄弟姉妹が共に座っている場所、一致がある場所にこそ祝福の場とします。現在で言えば教会と言うことになるでしょうか。

  神の民が一つであることにおいてのみ受ける事が出来る、溢れるばかりの命とは、まさに「至福」であります。神様ご自身の民の一致において主が与えてくださる命こそが神の家族としての最高の宝物である。それゆえに、この詩は現臨の主によって集められた者たちへの主の祝福に伴う生の恵みを喜び祝うものであり、この詩は主の晩餐が守られる礼拝で、式文としてもちいられてきたと言われます。古代キリスト教の偉大な神学者であるアウグスティヌスは、この詩こそ修道院を生み出したものであると主張したのでした。

 奇跡は一時信じさせる力があるかみ知れませんが、私たちは教会に集う兄弟姉妹の集まりの中でこそ、神様の恵みを受け続けて行くことが出来るのではなないでしょうか。