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説教「光の武具を身に着け」

説教「光の武具を身に着け」

岸 敬雄伝道師

申命記5章17~19節

ローマの信徒への手紙 13章8~14節

 

本日からアドベント・待降節に入りました。前のロウソクにも一本火が灯されました。本日読まれましたローマの信徒への手紙 13章8~14節は、アドベントで読まれるのに相応しい聖書箇所の一つだと言われています。13章8節で、人を愛する者は、律法をまっとうする、と言われています。愛する事こそが律法をまっとうするのです。

この律法とはどのようなものでしょうか。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、と言っています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」とは、旧約聖書でも読んでいただきましたが十戒の事を指しているのは明らかです。そして、十戒と言えば出エジプト記の20章の方を思い出される方も多いと存じますが、本日読んでいただきました申命記の5章にもほとんど同じ形で登場してまいります。

そして、その十戒をはじめとするどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されるというのです。なぜ掟を愛することに要約されるのでしょうか。

ここで言われていることに関しては新約聖書で言われている愛がどの様なものであるかに関係しているのではないでしょうか。私たちが愛と言うと愛情のような情緒的なものを思い浮かべますが、新約聖書で言われている愛とは、神様が私たちにどの様な事をしてくだったかであります。その最たるものが御子イエス・キリストをお遣わし下さって私たちの罪を贖うために十字架にまでおかけ下さった事であり、さらにイエス様を復活させて私たちにまで永遠の命の希望を与えてくださり、神様ご自身との関係を正しくして下さった事であります。イエス様こそが愛そのものなのです。

パウロは、互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。と言います。なぜ愛に貸が生じるのかと考えた時に新約聖書の愛は先にも言いましたが行動的なものだからです。そして、私たちは神様からの愛に対して到底この歌詞を払いきる事が出来ないのであります。

もう少し言えば、イエス様の贖いに対する借りを私たちは返し切る事が出来るでしょうか。決してそのようなことは出来ないはずであります。それと同様に、ある人からかけられた愛に対してすべてを返済しきることは出来ないのではないでしょうか。ですから愛だけは借りがあることがありえるのです。

 そして、人を愛する者は、律法を全うしている、というのです。相手となる隣人に対して自分を愛するように愛するならば決して悪いことはしないのであります。

 イエス様は、ご自分のことをマタイの福音書5章17節で律法を完成させるために来たのだと言われています。神様の愛の行為の最たるものであるイエス様が神の愛であるイエス様が律法を全うするものであるならば、イエス様の様に人を愛する者は、律法を全うしているのです。

 さらにパウロは、眠りから覚めるときだと言っています。眠っている夜は更け、目覚めの朝が近づいていると言うのです。だから、闇をむぎ棄てて光に武具を身につけようと言うのです。

 闇とは今まで私たちが歩んできた神様に相応しくない生活から抜け出して、そして福音に目覚めた生活をせよと言うのであります。それは、「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているから」というのです。パウロは救いに日が近づいていているという認識でいるのです。そして、救いに至るために暗い闇の過去をぬぎすてて、救いに向かうに中を歩むようにと言われているのです。そして、ここでは光の武具については具体的にはのべられていませんが、その後に主イエス・キリストを身にまといなさい。と言われていることから同様の意味だと考えられます。光の武具を身に着ける、主イエス・キリストを身に着けるとはどの様な事か。

それは、われわれが自分自身のためにではなく、神の為に生きるべきだと、と言う事であり、自分の生きると言う事は神の御心に従うと言う事なのであります。

品位をもって歩もうではありませんか、と呼びかけるのです。そのための具体的な提案として酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、肉に心を用いてはならないと言うのです。

決して、酒宴そのものが悪いというのではありませんが酩酊の原因となってしまう、異性を求める心は良くないわけではありませんが淫乱となるような好色は良くない、妬みを持つことによって争いが起してしまう。それはまさに神の愛とは相反する行為であり、主イエス・キリストを身にまとっている時には、決して在り得ない事態なのです。

 私たちは今週も、主イエス・キリストを身にまとって光の中を希望をもって歩んでいこうではありませんか。