過去の説教

主は憐み深く

  主は憐み深く 

 岸 敬雄 伝道師

詩編103編6~10節  ヤコブの手紙 5章7~111節

ヤコブは「兄弟たちに、主が来られるときまで忍耐しなさい。」と言います。そそして農夫に例えて、「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」というのです。

農夫が地上の尊い実りを得るために、春と秋に降る雨を忍耐しながら待ち続けると言うのです。日本では四季を通じて雨が降ります。もちろん、北海道をはじめとして冬には雪として、降り積もることは確かでありますが。それにしても、地域差はあるにしても、雨季と乾季にしか雨が降らない地域と違ってかなり水には恵まれているといえましょう。それであっても、干ばつなどに等の経験から見ますと、雨の降事とを待ちわびる思いは確かに強いものがあります。

忍耐しながら「心を固く保ちなさい。」と言います。なぜなら「主が来られる時が迫っているかから」というのです。もちろんここで言っている主が来られる時と言うのは、主の再降臨による最後の時を示しています。これは先週のパウロと同じように、ヤコブもまた、主の再降臨が近いという終末思想の上に立って勧めを行っていることは明らかです。そして、「主が来られる時が迫っているからです。」その再降臨に備えて、忍耐しなさいと言うのです。現在の私たちも忍耐する必要があるのは確かです。

そんな中でも互に不平を言わぬようにと勧めているのです。互いにとはどのような意味でしょうか。それは忍耐する必要があることが、決して外部の原因だけではないことを表しているのです。教会の中にもある、その最たるものが不平を言う言い方に現われているのであります。最後の日は、私たちにとって決して恐れる必要のある日ではありません。再降臨においての終わりに日は、私たちの救いが成就する日だからです。しかし、それと同時に神様の正義が執行される時であり、裁きの時であることも確かなことであります。

だからこそ教会の内外での出来事に忍耐しなければならないと言っているのです。そして、「主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」と言うのです。

預言者の多くは人々から快く迎え入れられることは少なかったのであります。神様からの警告を伝えるとき、人々はそれをほとんど受け入れませんでした。ヨナが語りかけたニネベの町の人々の様に悔い改めた人たちの方が例外的たっだのです。イザヤの様に王のそばに仕えていいた預言者さえも、最後は処刑されているのではないかと言われているのです。他の預言者でも自分の働きが辛すぎると命を取り上げてもらう事を願うほどだったのであります。

その様な中を忍耐し続けて多くの預言者は、自分が歩むべき主に使える道を歩み通して行ったのです。この様な預言者たちの忍耐に学ぶようにとヤコブは呼びかけているのです。

そして、忍耐強い人の代表としてヨブを取り上げて勧めをするのです。自分が何一つ身に覚えのない中で次々と多くの災難に見舞われたヨブ、その中においても耐え忍んでいきますが、最後につぶやいてしまうのです。その様なヨブに対して神様は恵みを与え前にもまして恵みを増し加えて下さったのです。人の弱さを示したヨブに対しても恵みを与えてくださる。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

もちろん主の慈しみ深い、憐れみの姿を私たちが顧みることは、私たちの日常の生活の中にも確かにあると思います。耐えられたい思いをしたり、耐えられない様な悲しみにあった時、打ちのめされて立ち上がれないと思った時、そんな時であっても、主が共に居て下さることを知った時、本日の様に忍耐するようにと勧められたことを感じとれるのではないでしょうか。

そして、主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方であることは、私たちがみるのは主イエス・キリストの十字架からなのではなのです。