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主の僕の歌

主の僕の歌
大坪章美 牧師

ヨハネによる福音書 12 章 20 ~ 26 節

第二イザヤは、捕囚の末期に、自らも捕囚の民としてバビロンの居留地に有って、解放の時が近いことを告げ知らせて、同胞を励ましました。その言葉は、全体として、“慰め”や、“励まし”に満ちた救いの預言が、語られています。

第三の「主の僕の歌」がイザヤ書50:4〜9節です。4節には、「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚まして下さる。朝毎に私の耳を呼び覚まし、弟子として、聞き従うようにして下さる」と、歌っています。神の僕は、神の弟子としての舌を与えられて、聞く事も、語る事も、全て神に向けられておりまして、又、神に基づいています。神の僕は、長い間のバビロン捕囚の生活に、どっぷりと浸かって、異教の生活に慣れきって、ようやく訪れたエルサレムへの帰還に対して消極的になり、又、否定的になっている人々からの迫害を受けても逆らう事をせず、また、しり込みする事もなく、神の言葉を語り、熱心に帰国を促し続けたのでした。そして、その行いは、「傷ついた葦を折る事なく、ほの暗い灯心を消す事なく」歩む道に外ならなかったのです。

 次に、第二イザヤが「主の僕」について預言した時から、五百年以上もの時が流れます。紀元30年のエルサレムでも、過ぎ越しの祭りが近づいたという事で、多くのディアスポラのユダヤ人達が祭りに参加する為に各地から集まって来ました。そしてヨハネによる福音書の12:20節です、「さて、祭りの時に礼拝する為にエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた」と記されています。彼ら異邦人達が、イエス様にお目にかかりたいと申し出ているのです。

まず最初に、フィリポが頼まれ、そして、頼まれたフィリポは、同じ使徒のひとりであるアンデレに話して、アンデレとフィリポは一緒にイエス様のところへ行って、イエス様に、「イエス様にお会いしたいと、望んでいるギリシャ人や異邦人たちの願い」を伝えたのでした。イエス様は、お答えになりました。23節以下です、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒の麦のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と、仰いました。一粒の麦は地に落ちて、土に埋もれなければ、いつまでも、一粒の麦のままです。しかし、地中に埋もれて、古い命を失うならば、やがて、その古い粒の殻を破って、多くの新しい命が生まれ出ます。

イエス様は、この、決意されたご自分の“十字架上の死”の予告のお言葉を、弟子たちにも分かるような表現で語られました。25節です、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って、永遠の命に至る」と、仰いました。

イエス様が仰った「死の法則」は、弟子達にも適用されます。命に固執している者が、まさに、命を失って、反対に、「命を捨てる用意の出来ている者が、永遠の命を受けるであろう」という、逆説的な真理が完成されています。神を信じ、従う者にとって、「神の御心」がまず、優先して、自分の命や、自分の都合は、これに捧げるよう求められます。然し、人間の“肉の欲求”は、これを実践する事を困難にします。そして、そこで、悩み苦しみ、自らと葛藤します。そして、それを通り越してようやく、「自分の命を憎む」という事の本当の意味が分かって来ます。「自分の命を憎む」という程の“決然たる覚悟の程”が無ければ、“肉の心”を服従させることは出来ないのです。然し、イエス様は、この、「神への絶対的服従」を、“自己否定”とは言われません。「イエス様に仕え、従い、共にある」という事が、「古い自己を捨てること」になるのです。「これを行う者に、永遠の命が与えられる」と、仰るのです。

そして、この場合の、イエス様が仰った、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」という、ご命令に従う者こそ、かつて、第二イザヤが主の僕の歌で語った、「主なる神が、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚まして下さる」と歌った、「主の僕の歌」に外ならないのです。私達も、主の僕に続く信仰者でありたいと、願っています。

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