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荒れ野の旅路を守る方

荒れ野の旅路を守る方
大坪章美 牧師

ヨハネによる福音書 8 章 12 ~ 20 節

その頃、モーセに率いられたイスラエルの民は、カデシュ・バルネアに滞在していました。カレブとヨシュアの2人を除く10人全員が、気弱になって、「侵略は困難である」という報告を上げたために、主の御怒りを買って、イスラエルの民は、この荒れ野で、さらに38年間もの長い間、放浪しなければならない、という神の審きを受けたのでした。

しかし、ついに、主なる神様はモーセに言われました。申命記2:3節です、「あなたたちは、既に久しく、この山地を巡った。北に向かって行きなさい」と、命令されました。神様は、イスラエルの民に、約束の地カナンを与えようとされているのです。「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主は、あなたと共におられたので、あなたは何ひとつ不足しなかった」と、告げられたのです。

時と場所は変わりますが、紀元30年頃のエルサレムです。その年も秋の収穫が終わった頃、ユダヤ教の祭りである“仮庵の祭り”が行われていました。仮庵の祭りには、二つの大きな行事がありまして、一つは、祭りの二日目の夕方、シロアムの池から汲んだ水をエルサレム神殿に運んで、祭壇に注ぐ儀式がありました。ヨハネによる福音書の7:37節以下に、イエス様のお言葉が記されています。「渇いている人たちは誰でもわたしの所に来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。

そして、8:12節です。イエス様は再び言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と、仰いました。祭りの七日の間、夕方になりますと神殿の前庭に立てられた大きな灯2本に灯が灯され、その光がエルサレム市内を明るく照らしたのです。これが、仮庵の祭りの、もう一つの行事、シムハット・トーラーです。シムハット・トーラーとは、“律法を与えられた喜び”すなわち、“律法感謝祭”という、最も大きな祭りです。

イエス様は今、「わたしに従って来る者は、闇の内を歩く事が無く、命の光を持つであろう」と言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」というお言葉は、本来ならば、世の終わり、終末の日に起きるべき事が、今イエス様のお言葉によって、現在、現れている事を意味します。“世の光”は、同時に、“命への光”ですから、生と死を厳しく分かつ存在であって、“従う者”を、“罪と死の暗闇”から“命”へと導き出す、“光”なのです。

然し、イエス様が言われた「わたしは世の光である」という言葉は、「神の権威を表すもの」でありました。「神の権威」というものは、万人が納得するような形で証明する事はできないものです。もし証明できるものがあるとすれば、それは宗教ではなくなってしまいます。ですから、「神を知らない人々」や、「神と人格的な結合の無い人々」は、“イエス様の正しさ”を、認める事が出来ません。また、イエス様の審きが真実なのは、「その裁きは、決して一人で行われるのではなく、いつも父なる神様と共に働かれているから」なのです。

ファリサイ派の人々は、旧約の時代から一歩も進んでいないので、「もはや、律法によっては、父なる神に到達することが出来ない」ということを、分かっていないのです。彼らが父なる神様に到達できる唯一の道は、「イエス・キリストを信じること」をおいて、外にはありませんでした。

20節は、このファリサイ派の人々との論争が、エルサレム神殿の中で、然も、宝物殿の近くで行われた事を表しています。ファリサイ派の人々の、最も神聖な場所で、彼らの無知が暴露されたのでした。イエス様は、この場所で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と、話されました。イエス様は、かつて、モーセが語った神の言葉、「主はあなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り通された」とのお言葉を、エルサレム神殿の宝物殿の近くで、実現されたのでした。

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