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平和を残す

平和を残す
大坪章美 牧師

ヨハネによる福音書 14 章 21 ~ 27 節

イザヤ書53章で、「苦難の僕」の歌を学びました。イスラエルの民が、50年もの間、バビロン捕囚によって悲惨な状況に置かれていましたように、苦難の僕の姿も損なわれ、見る影もありませんでした。しかし、この僕が、はるかに高く上げられて、崇められるのです。それは、多くの人々や、王たちの驚きでした。まさに、前代未聞のことでありました。

53:10節にあります、「彼は、自らを、償いの捧げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る」と、記しています。神様は、バビロニアのネブカドネツァル王がユダの民をバビロンに引いて行くままにされましたが、それは、ユダの民の、罪の為せる業でした。「ひととき、激しく怒って、顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもって、あなたを憐れむ」と、主は言われているのです。そして、この、神の赦しの確かさは、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。然し、わたしの慈しみは、あなたから移らず、“私の結ぶ、平和の契約”が揺らぐ事はない」、と、約束されています。

こうして、第二イザヤが、「主は、イスラエルに平和をもたらす」との預言を為した時から、五百年余りも経った、ユダヤの暦でニサンの月の14日の前日でした。その日の夕刻、イエス様は、12人の弟子たちと、エルサレムのとある家の二階の広間に集まって、夕食を摂られました。ヨハネによる福音書の14:21節でイエス様が仰った、「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしも、その人を愛して、その人に、わたし自身を現わす」というお言葉には、重大な“真理”が込められていました。その、“真理”と申しますのは、「“イエス・キリストを愛する”ということが、すなわち、“真理を知る”ことである」と言うことです。 “真理を知る”ためには、「神様と、イエス様とを、まず、愛さなければ」なりません。そして、「神と、イエス様に愛される者だけ」が、真理である、イエス・キリストを、見る事ができるのです。

これとは逆に、イエス様を受け入れないで、イエス様の言葉を守らない者は、“真理の世界”に、入ることができません。「神の真理を知る」という大きな恵みは、「信仰的な制約のもとにあって」のみ、受けることが出来るものです。大切なことは、新約聖書の445ページに記された、ヨハネの手紙第一、4:10節の、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と、書き残しています。わたしたちが、神を愛する以前から、“神の愛”がわたしたちに与えられているのに、現代の巷に溢れた情報が邪魔をして、真理を見えなくしているのです。イエス様は、続けて語られました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる“聖霊”が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを、ことごとく思い起こさせて下さる」と話されました。

イエス様は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と、仰いました。また、「わたしは、これを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と、付け加えられました。イエス様は、これらの“霊の戦い”に臨んでも、決して奪い去られることのない、「平和」を、弟子たちに、残して行く、と言われています。ここで仰る“平和”とは、「戦いの中にあっても、揺らぐことの無い“平安”のこと」です。わたしたちの生活の中で、不安や心の動揺が、どれほど激しくとも、「それを支えてくれる、“平和”を与える」と、仰っているのです。

こうして、かつて、第二イザヤが語った、「主は、イスラエルに“平和をもたらす”」という預言が、紀元30年、エルサレムで行われた最後の晩餐の後、イエス様が語られた「あなたがたに平和をもたらす」と仰った事において、成就していることが分かるのです。ヨハネによる福音書20:19節には、十字架の死から三日目の夕刻、墓から復活されたイエス様が、弟子たちが、鍵をかけて閉じ篭っていた部屋の真ん中に立たれて、仰いました、「あなたがたに、平和があるように」。

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