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主が顧る人

主が顧る人
大坪章美 牧師

マタイによる福音書 9 章 32 ~ 38 節

イザヤ書66:1節は、バビロン捕囚から帰還した人々に、イザヤが語った神の言葉です。「天はわたしの王座、地はわが足台」という言葉は、「天と地は、神の御手の業であると同時に、神の天的な、また、超越的な性格を示すものである」ことを示すものです。「あなたがたは、一体、どこに、わたしのために神殿を建て得るか」と、問い詰めておられます。なぜ、神様は、このようなことを仰ったのでしょうか。なぜならば、その当時のイスラエルの中には、神殿を中心とした、表面的な宗教儀式さえ行っていれば、神は救って下さる、という誤った考えをする人々が居たからでした。

それでは、神様が求めておられる“真の信仰者”とは、どのような人々の事なのでしょうか。神様は仰っています、2節です。「これらは全て、わたしの手が造り、これらは全て、それ故に存在する、と主は言われる」、と記されています。そして、それゆえにいわれるのです、「わたしが顧るのは、苦しむ人、霊の砕かれた人。わたしの言葉に、おののく人」と、言われました。

沢山のものを神に捧げれば神が喜ばれる、というのではありません。立派な神殿も必要ありません。神様が求められるのは、“私達の心”です。どうすれば、そのような人になれるか、と申しますと、「自分が、本当に罪深い人間である事を思い知らされ、そうする事によって、神の前にある自分の魂が、打ち砕かれる思いをする人」です。このような人は、決して、人を裁きません。と、申しますより、裁く事が出来ないのです。

それから、およそ五百年余りが経過した、場所は、ガリラヤでの出来事です。著者マタイは、9:32節で、「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて、口の利けない人がイエスのところに連れられてきた」と記しています。実際、悪霊に取り付かれていることだけでも、重い精神障害を患っている状態ですのに、加えて、言葉もしゃべれないということですから、この人は、本当に、人間の、生きる手段を閉ざされた、まさに、生ける屍のような状態にあったものと、思われます。

然し、「悪霊は追い出され、口の利けない人がものを言い始めた」と記されています。イエス様は、人々の期待に見事に応えられて、人々の願い通り、この重病人を癒されたのでした。然も、この「救いの出来事」は、単に、体の癒し、という事ではなくて、悪霊との戦いでありまして、「悪霊に支配されていた人」から、悪霊を追放する事によって、命への道を、開かれたのでした。そして当時は、「悪霊を追い出す」という事は、「人間の力では不可能な事」と思われていたのでした。

然し、ユダヤ教ファリサイ派の人々は、イエス様の“人間の力を越えた癒しの御業”を認めたくないものですから、このイエス様の癒しの御業にも屁理屈をつけてイエス様のお力を否定する説明をしようとしました。「あの男は、悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している」と言った、とあります。然し、12:27節、イエス様の反論が、示されています。そこには、「わたしが、ベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなた達の仲間は、何の力で追い出すのか。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた達のところに来ているのだ」と仰っています。

36節以下で、イエス様は、語られました。「群集が、飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と、記されています。しかし、かつての預言者たちのように、時の支配者に盾つくことはなさいませんでした。そうではなく、直接、民の苦しみに仕える道を取って、次々に癒しを行われました。民の間には大いなる挫折がありました。それは、人間の目には、絶望としか見えません。然し、神様の目には収穫の時であって、むしろ、チャンスでもあるのです。イエス様は、「憐れみ」と共に、「希望」も、持っておられました。

かつてイザヤが語りました、神の言葉、「わたしが顧るのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」という預言が、今、ここに、イエス様が、「群集が弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ことに於いて、実現しているのです。

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