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語りかける者

語りかける者
大坪章美 牧師

ヨハネによる福音書 4 章 20 ~ 26 節

エゼキエル書1:1節は、「第30年の4月5日のことである」という言葉で始まっています。エゼキエルが30才に達してから祭司となり、また主なる神様の召命によって預言者に任じられたのは、私達の主、イエス・キリストが、やはり、30才になられてから公の生涯を始められた事にも、結びついて来るものです。

エゼキエルが聞いた、その声は言われました、「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われました。エゼキエルが遣わされるのは、「恥知らずで、強情な人々」で、「反逆の家」と呼ばれる、イスラエルの民です。神様は、言われました、「人の子よ、あなたはあざみと茨に押し付けられ、サソリの上に座らされても彼らを恐れてはならない」と命じられました。その結果の是非は、エゼキエルが煩うことはないのです。それは、エゼキエルに語りかけ、使命を与えられた方が、その保証を引き受けて下さるからです。

エゼキエルが召命を受けた時から六百年余りの時が経った頃、パレスティナの中程にあるサマリアでの事です。その頃イエス様は、洗礼者ヨハネの教団との無用の衝突を避ける為にベタニアを去って、自由の天地、ガリラヤへ向かわれました。そしてその途中、シカルというサマリアの町にあるヤコブの井戸で休息を取られました。昼日中の暑い時刻、折しも、そこへ水を汲みに来たサマリアの女性との対話があって、その結果、女性は、自分のそれまでの生き方をイエス様から一切を見通されて隠すこと等できないことを悟るのでした。

女性は「わたしどもの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と、話しました。イエス様は、お答えになりました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と、仰ったのです。イエス様は、三つの大切なことを示されました。一つ目が、4:21節でした。「この山、すなわちゲリジム山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と仰ったのは、「どこででも、父なる神様を礼拝する時が来る」と、仰ったのでした。イエス様は、エルサレムに入城された、その日に、その足でエルサレム神殿へ行かれ、激しい勢いで、神殿粛清を行われたのです。

そして、二つ目、「まことの礼拝をする者達が、霊と真理をもって、父を礼拝する時が来る」と仰いました。イエス様がサマリアの女性に仰ったのは、真の礼拝とは「無条件に信頼し服従して、自分の全人格を、神の本質である“恵みと真理”の中に委ねる事」なのです。

三番目に、「神は“霊”だから」と仰いました。真の神は、人間による制約を受けない、自主的な主体であって、本当の命を人間に与える力を持っておられますので、「信仰者は、霊と真理によって礼拝する」のです。

イエス様のお言葉を静かに聞いていた女性が口を開きました。25節です、「わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られる事を知っています。その方が来られる時、わたしたちに一切のことを知らせて下さいます」と言ったのです。まさに、“キリストと呼ばれるメシア”ご本人が、女性の目の前に立っておられます。サマリアの女性は、目の前におられる方が、自分に、真理の伝達をなさろうとしていることに、未だ気づいていないのです。イエス様は仰いました。「それは、すなわちメシアは、あなたと話をしている、このわたしである」と仰いました。この福音書の中で、イエス様がご自分の実体を明かされるのは、これが初めてです。不思議なことです。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、イエス様は、ご自分が、キリストであることをあからさまには仰ることは無く、弟子たちにも沈黙を命じられていたほどでした。しかし、この女性は、イエス様の啓示を素直に受け入れることが出来ませんでした。

今日、最初にお話しましたエゼキエル書2章では、「主が語り始めた時、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」と、記されておりました。エゼキエルに語りかけられた主は、数百年の時空を超えて、今、また、サマリアの女性に語りかけられたのでした。

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