ほかの舟も
久世そらち牧師
マルコによる福音書4章35〜41節
教会は、しばしば舟になぞらえられます。
主イエスの最初の弟子となった漁師たちにとって、舟は生活と仕事を支える大事な器でしたが、そこに主イエスと共にガリラヤで過ごした日々の体験が重なっていきました。そうした体験が、のちのち弟子たちが教会を形作っていく中で出会う様々な信仰のできごととも重なっていったのです。
ある日、主イエスは湖のほとりで人々を教えていましたが、夕方暗くなる頃、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちに舟を出させました。
なぜ、「向こう岸に渡ろう」などと言いだしたのでしょう。「向こう岸」は異邦人の地です。話を聞きに集まってきていたユダヤ人を置き去りにして、あえて異邦人の地に向かおうというのです。しかも、これから夜の暗がりに覆われ、先が見えなくなっていく時分です。弟子たちは不安の中、それでも主に言われるまま湖にこぎだしました。
ところが、その湖のただ中で、舟は嵐に襲われます。さしものプロの漁師たちでさえ、これはだめだと観念しました。それなのに、向こう岸へわたろうなどと言いだした張本人の主イエスご自身は、この危機の中、何もせずに眠りこけておられるのです。
弟子たちはたまりかねて主イエスをたたき起こし、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と非難します。すると主イエスは目を覚まして起き上がり、嵐を静め、そして「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちを叱るのです。行こうと言ったのはわたしだ、わたしがいる、何を怖がるのか、と信仰をただしたのです。
ずっと後、弟子たちはこのできごとに、自分たちの教会の姿を重ね合わせました。
主イエス・キリストの十字架と復活の後、弟子たちは、まったく思いもよらなかったことに、ユダヤから異邦人の世界へ、先行きのわからないままこぎだしていくことになります。それは彼ら自身の計画ではなく、主の促しによるものでした。先が見えない中、教会はやがて恐ろしい嵐に翻弄されることになります。外から迫る苦難、うちに満ちる困難、時代の荒波にもまれ、今にも沈むような危機にさらされます。それなのに主は何もしてくれないように見えます。
しかしその時にこそ、かえって問われるのです。なぜ怖がるのか、まだ信じないのか、苦難や困難、時代の波をなぜ怖がるのか、キリストは共にいるではないか、風も湖も支配するキリストを信じないのか、と。
さて、この場面で「ほかの舟も一緒であった」と記されています(36節)。「ほかの舟」は、複数形で記されています。これは、誰が乗った、誰の舟だったのでしょうか。一艘の舟には乗りきれなかったほかの弟子たちが分乗していたのでしょうか。岸辺の群集が主イエスを追いかけてきたのでしょうか。たまたま湖で行きあわせた舟だったのでしょうか。
これらの舟は、その夜、どうなったのでしょう。嵐の中、沈んでしまったのでしょうか。主イエスが嵐を静めるまで、なんとか波風に耐えて残ったでしょうか。
主イエスと弟子たちの舟を教会になぞらえると、「ほかの舟」は何にあたるのでしょう。
ほかの教会のことでしょうか。教会は、ほかの教会と一緒にこの世へとこぎだしています。時代の嵐に襲われるとき、ほかの教会も、ともにその苦難をこうむり、同じく脅かされ苦しんでいるのです。
あるいは、教会に限らず、ほかの人々をあらわしているのでしょうか。教会が時代の嵐に悩むとき、時代の困難は教会だけでなくほかの人々をも襲っています。
教会が「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と主に訴えるとき、「わたしたち」とは「ほかの舟」のことも含んだ「わたしたち」かもしれません。
主イエスが嵐を静めたとき、弟子たちの舟だけでなく、ほかの舟もまた嵐から救い出されて、共に平和の朝の希望の光を仰いだのではなかったでしょうか。教会は、「ほかの舟」と共に苦しみ、そして共に救いの希望を望み見るのです。