過去の説教

真理に属する者

真理に属する者
大坪章美 牧師

ヨハネによる福音書 18 章 28 ~ 37 節

シリア・エフライム戦争が終わって、およそ30年が経った紀元前705年の事です。アッシリアでは、センナケリブが王位に就いていました。その頃、大規模な反アッシリア運動が起きました。南王国ユダの第13代目の王、ヒゼキヤに、ペリシテ人が使節を遣わして、アッシリアに対する反抗を促しました。エチオピアもユダに使節を遣わして、バビロンの王、メロダク・バルアダンも、自らヒゼキヤ王の病を見舞って、アッシリアへの反抗を勧めたのです。

然し、預言者イザヤはユダ王国の人々に対して、反アッシリア運動に参加しないで、ただ、神にのみ頼ることを勧めました。ところが、預言者イザヤが伝える神の言葉は全く人々に伝わらないのです。そこで語ったのが、イザヤ書29:9節の、「ためらえ、立ちすくめ、目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているがぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない」という分かりにくい預言でした。ただ一つ分かるのは、いかにユダの民が頑迷で、無知であっても、イザヤはそれらを含めて、全てが、神様がなさる御業である、と理解している、ということです。

そして29:15節以下でイザヤは語りました。「災いだ、主を退けて、その謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う、『誰が我らを見るものか。誰が我らに気付くものか』、と」と語っています。この思い上がりに、イザヤは、厳しい言葉を投げかけます。16節です、「お前達は、なんと歪んでいることか。陶工が粘土と同じに見做され得るのか」と問いかけました。信仰の中で、人間の“高ぶり”は起きやすいのです。心しなければなりません。謙虚さの極み、と見える信仰生活でさえも、高ぶりに通じる事があるのです。

イザヤの預言から730年程も後の、場所はエルサレムです。時は、ユダヤの暦で、ニサンの月の14日でした。その日、朝未だ早い時刻に、イエス様の身柄はローマの総督ポンテオ・ピラトの官邸に引き渡されたのです。そこで、官邸の中からピラトが出てきて、大祭司達に「どういう罪で、この男を訴えるのか」と問いかけて、「自分達の律法に従って裁け」と、命令するのですが、大祭司達ユダヤ人は、「私達は、人を死刑にする権限がありません」と答えました。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して『お前がユダヤ人の王なのか』と言った」と記されています。イエス様はお答えになりました。「私の国は、この世に属していない」と言われました。即ち、イエス様は、「私はユダヤ人の王である。然し、その国は、この世には属していない」という意味で仰ったのでした。

然しピラトの頭の中には、イエス様がお答えになった、「私はユダヤ人の王である」という部分だけしか残っていませんでした。続いて仰った、「私の国は、この世に属していない」という部分は、ピラトの関心を引かなかったのでした。もはや、イエス様が続けて仰った、「私は真理について証しする為に生まれ、その為にこの世に来た。“真理に属する人”は皆、わたしの声を聞く」という言葉は、ピラトの耳には届きませんでした。イエス様は、ご自分の“王権”は、真理に基づいていると仰いました。「真理によって、世を支配する」という意味が、ピラトには分からないのです。イエス様は、ピラトが凝り固まっている、軍事力や、政治による支配だけではなくて、「“神の真理”による人々の信頼と服従とを通して行われる支配」を分からせようと、されたのですが、ピラトとは話が噛み合いません。

イエス様は、「わたしは、“真理”について証しする為に生まれ、その為にこの世に来た。真理に属する人は、皆、わたしの声を聞く」と、仰いましたが、ここで言われた「真理」とは、イエス様が、その生きざまを通して示された、“神の思い”なのです。

わたしたちは、ここに、かつて預言者イザヤが待ち望んだ、「神の真理」に耳を傾ける人々の実現を見ます。イザヤが語ったイスラエルの人々は、「誰が我らを見るものか、だれが我らに気付くものか」と、神の言葉に背きました。しかし、神の真理に従う人々が、イエス様の前に初めて現れたのでした。

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