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安息日の休み

安息日の休み
大坪章美 牧師

ヘブライ人への手紙 4 章 1 ~ 9 節

エゼキエル書34:16節では、主なる神様の、救いの宣言がなされています。「わたしは、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。しかし、肥えた者と、強い者を滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と、仰いました。これこそ、真の羊飼いによる救いの言葉です。

主なる神様ヤハウェは、自らが、イスラエルの民の牧者となられ、羊の裁き主となることを表明されて、「わたしは彼らと、“平和の契約”を結ぶ」と、宣言されました。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、祖国ユダへ帰って、“安んじて住み、眠ることが出来る”ようになるのです。

預言者エゼキエルが語った「イスラエルの民が“安らかに住まう”」との預言から六百年以上も経った頃、ヘブライ人への手紙の読者達の教会は、迫害の危機に襲われていました。ヘブライ人への手紙4:1節の直前、3:17節以下には、「一体、だれに対して、神は、40年間、憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対して、ではなかったか」という、著者の言葉が記されていますが、これは、イスラエルの民が、荒れ野に足を踏み入れて2年程が経った頃、カデシュ・バルネアに宿営していた時のこと、12人の部族の代表が斥候に出て、戻ってきた時、大多数の者の報告が好ましいものではなかったことに対する裁きが行われて、主なる神様は、「決して、彼らを、わたしの安息に入らせない」と誓われたことを指しています。

著者は最初に言いました、「だから、神の安息に与る約束が、未だ続いているのに」という言葉は、「神の、救いの約束が、取り消された訳ではない」と言っているのです。神の約束は、成就されることを、求めています。そして、この、「安息に関する御業」は、創世記に記されていますように、既に、天地創造の時以来、出来上がっていました。何故ならば、創世記2:2節には、「神は7日目にすべての業を終えて休まれた」と、記されているからです。これによって、神様が6日間の創造の御業の後、永遠の安息に入られて、その時の安息が、今も、キリストを信じる者を待ち受けているのです。この安息に預かることが出来ない理由は、ただひとつです。それは、「わたし達のために、安息がある」と信じないからです。

「今日、わたしたちが神の声を聞くならば、心を頑なにしてはいけない」のです。何故ならば、その時、わたしたちは、“かつて、荒れ野で、神の御心に背いて、約束の地、永遠の安息に入り損ねたイスラエルの民”と同じ状況に立たされているからです。わたしたちは、決断をしなければなりません。そうしないと、わたしたちも、“約束の地”すなわち、永遠の安息に入る機会を、取り逃がしてしまうからです。

この手紙の著者にとって、“安息”というものは、もはや、地上で達成されるものではなく、むしろ、終末の完成を、意味していました。すなわち、イエス・キリストの贖いの死によってもたらされるのです。ヨシュアが、千三百年も前に、地上の指導者として、イスラエル民族を率いて、カナンに侵入したのに対して、イエス様は、わたしたち人間の初穂として、天のカナンに進まれたのでした。言うなれば、ヨシュアは、イスラエルを、この世の嗣業、即ち、受け継ぐべきものへと導きましたが、イエス様は、すべての人間のために、“永遠の安息日”に至る道を開いて下さったのです。著者は、9節で語っています、「それで、安息日の休みが、神の民に残されているのです」と、記しています。ここで、著者は、“新しい神の民”、すなわち、キリスト者のために残されている安息を、旧約の“安息日”と区別して、“安息日の休み”と、表現しています。

この、“安息日の休み”に選ばれる資格がある人々は、「神の民」と、呼ばれます。神の民は、ユダヤ人と異邦人が含まれます。主なる神様は、喜んで、“信じる者”を、“ご自分の民”と、呼ばれるのです。そして、この、「神の民」には、かつて、預言者エゼキエルが預言した、「神の僕のご支配の許、安らかに住まうイスラエルの民」も、含まれているのです。

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