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神の前に豊かになる

神の前に豊かになる
大坪章美 牧師

ルカによる福音書 12 章 13 ~ 21 節

申命記5:1節には、「モーセは全イスラエルを呼び集めて言った」と、記されています。そして、シナイ山で主なる神様がイスラエルの民と結ばれた契約、即ち十戒を、6節から21節にかけて、紹介しています。その内、21節が、十番目の戒律です。「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを、一切欲してはならない」と、記されています。茲では、“貪欲”の戒めが語られています。今、モーセが語っているこのタイミングは、モーセの説教が終わりましたら、直ちに、モーセの後継者でありますヨシュアがイスラエルの人々を率いて、ヨルダン川を渡り、西側の“約束の地”に上陸したら、その土地を占領しなければなりません。主なる神様は、その場合、「先住民を、滅ぼし尽くさなければならない」と、命令されています。どこかの町を支配しても、「隣りの異邦人の妻と縁を結ぶ」というような“貪欲”な思いを、持ってはならない、と命令しているのです。

この時から、千三百年程も後の、所はエルサレムです。群集の中で、イエス様のお話を聞いていた一人の男がイエス様にお願いした、と言うのです。「先生、私にも、遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください」と、訴えました。然し、イエス様はこの男に答えられました。「誰がわたしを、あなた方の裁判官や、調停人に任命したのか」と仰って、その依頼をお断りになった上で、そこに居た群集一同に話されました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余る程、物を持っていても、人の命は、財産によって、どうすることも出来ないからである」と仰ったのです。

そして、イエス様は、ひとつの譬え話をされました。ある、金持ちの話でした。その金持ちは、豊作で、大きな収穫を得たのですが、あまりに、収穫した作物が多かったので、これまでの倉を壊して、もっと、何倍も大きな倉を建てて、収穫した穀物や財産を、みな、しまい込んだのでした。そして、自分に言い聞かせた、と言うのです。「さあ、これから先、何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、自分に言い聞かせたのです。

この金持ちの喜び方は大げさに見えますが、努力して種を蒔き、日々手入れして、肥料を施し、相当の努力をした結果、手に入れた豊作です。喜ぶことは、決して、責められることではありません。ただし、この金持ちに欠けていた、大切なことがありました。それは、この豊作について、初めから、終わりまで、「わたしの収穫」、「わたしの倉」、「わたしの財産」、と言っていて、上よりの力、すなわち、“神様のお働き”については、考えの中に入っていなかったのです。

然し「私の財産」、と同じように、「私のわたし」と言えるでしょうか。「私の命」と言えるでしょうか。この金持ちの“命”は、どれ程多くの財産を持っていたところでこの金持ちが自由に扱う事は出来ないのです。

そこで、主なる神様は、この金持ちに言われました。20節です、「“愚か者”よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、一体、誰のものになるのか」と仰ったのです。そこには、この世で手に入れた収穫、財産を、「神の恵み」として認めない、“傲慢”があって、これを、イエス様は、「貪欲」と呼んでおられます。イエス様は最後に言われました、21節です。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者は、このとおりだ」と、この金持ちに告げられたのです。わたしたち、イエス・キリストを信じる者は、「人の命」も、「自分の持ち物」も、万物の所有権を、父なる神様に帰するところにあります。「自分のものは、神のものである」という確信を得た時に、その信仰者は、「神の前に、豊かになっている」のです。

ここで、わたし達は、モーセが語った申命記の十戒の中の十番目の戒めを思い起こします。「隣人、即ち異邦人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを、一切欲してはならない」という掟でした。これは、「貪欲」を戒めるものでした。そして、イエス様はこの“貪欲”について、「金持ちの譬え」によって、群集を戒められたのです。

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