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神の選び

神の選び
大坪章美 牧師

ローマの信徒への手紙 11 章 25 ~ 36 節

イザヤ書11:8節で、イスラエルの民は、「わたしの僕」と呼ばれ、「選ばれた民」と呼ばれています。神様がわたし達を選ばれた、ということが、真実である限り、わたしたちには未来があるのです。「選び」とは、旧約聖書においては“特権”ではなく、「ただ、神の愛によって捕らえられていること」を意味しています。

そして、「恐れるな」という命令が、14節で現れます。「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ。イスラエルの人々よ。私はあなたを助ける」と、仰いました。「たじろぐな、逃げ出してはならない」と仰るのは、「現実から」なのです。10節で既に言われています、「私は共にいる神、たじろぐな、わたしはあなたの神」と、仰っています。神様が、共にいて下さる私達なのに、何を恐れることがあるのでしょう。何から逃げ出す必要があるのでしょう。主なる神様は、「現実」から「逃げることも、恐れることもない」と命令されるのです。

次に新約の時代、主イエス・キリストの使徒であるパウロが著わした、ローマの信徒への手紙に移ります。パウロは、「兄弟達、自分を賢い者と自惚れないように、次のような秘められた計画を是非知って貰いたい」と言っています。そして、パウロの傍若無人とも思える言葉は更に続きました、「次のような、秘められた計画を知れば、あなた方の自惚れはどこかに吹き飛んでしまうであろう」と、語っているのです。“秘められた計画”という言葉が、キーワードになっています。原文では、ギリシャ語で、ムステリオンと書かれています。

パウロが語る“ムステリオン”とは、「神のご計画によれば、イスラエルの民、ユダヤ人達がイエス・キリストを頑なに拒み続けて迫害してきた事は、一時的なものにすぎないこと」と言っています。この、「イスラエルの民の一時的な頑なさ」は、それによって、“異邦人の全てが、イスラエルの民よりも先に、教会員になる”為の道具として用いられているに過ぎない、と言っているのです。パウロは異邦人伝道者として、その全生涯を捧げましたが、心の奥底では常に、「自らの民族であるイスラエルの民が救われてほしい」という願望が、ひと時も意識から離れる事はありませんでした。

28節でパウロが語っています、「“福音”について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、“神の選び”について言えば、先祖たちのお蔭で、神に愛されています」という言葉は、イスラエルの民の微妙な立場を語ったものです。

30節以下で、“今”という言葉が3度出て参ります。まず、「あなた方は、かつては神に不従順でしたが、“今”は、彼らの不従順によって憐みを受けています」と、言っています。“あなた方”即ち、異邦人であるローマの信徒達は、かつては偶像を礼拝していましたが、“今”は、イスラエルの民が頑ななせいで、神の憐みを受けて、救われている、と言っています。次に、イスラエルの民も、“今”でこそ、ローマの信徒達が受けた憐みによって、神の前に“頑なな民”とされていますが、これはイスラエルの民が、神の憐みを受ける為でした。

そして、パウロは、ひとつの結論を導き出しました。32節です、神は、全ての人、異邦人も、イスラエル人も、全ての人を、一旦は、頑なな者、不従順な者とされました。ここで言われている、“全ての人”とは、異邦人も、イスラエル人もない、“すべての人”です。「全ての人」を、一度は不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、次に、“すべての人を憐れむ”為、であったのです。パウロは、5:20節で記しておりました、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わる為でありました。然し、罪が増したところには、恵みはなおいっそう、満ち溢れました」と語っていました。

こうして、究極的な“神の選び”が実現したのです。かつて、父祖アブラハムが召命を受けてハランを出発し、イスラエル人は、“選ばれた民”となりました。然し、イスラエルの民は、イエス・キリストに反抗する事によって、神の審きを受ける者となりましたが、“選ばれた民”であることは、変わりませんでした。イエス・キリストの招きに応じた異邦人が「選ばれた民」とされた後に、イスラエルの民も、救われるのです。

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