過去の説教

神の思い、神の道、神の愛

神の思い、神の道、神の愛
大坪章美 牧師

コリントの信徒への手紙一 13 章 1 ~ 13 節

イザヤ書55:8節と、9節の言葉の前には、原文では、キーという言葉があります。「何故ならば」という意味です。6節で語られていました、「主を尋ね求めよ」、「呼び求めよ、近くにいますうちに」というご命令が出された理由が、述べられるからです。「思い」と言いますと、人間の場合は、「反省」を意味しますが、神様の場合は、「計画」とか、「構想」を意味しています。「道」とは、人間の場合、「人生を歩む道」を意味しますが、神様の場合は、既に建てられた「計画」や、「構想」の「実現の手段」のことを指しています。

その時、バビロン捕囚の苦しみの中でのイスラエルの民の「思い」は、異教の地、偶像を神々とする地で、自分達を支配されたままに捨て置かれる、主なる神ヤハウェに対する“不信感”でした。この、切羽詰まった状況で、神の言葉が響き渡るのです。イスラエルの民を奴隷の地エジプトから導き出された主なる神様が、今や、贖いの神として、この捕囚の地バビロンにも現れるのです。この“神の思い”が、神の“計画”なのです。私達を、絶望の渕から、無気力から、迷いから、疲労困憊から、立ち上がらせて下さるのは、そういう状況でもなお、語り掛け続けて下さる主の御言葉です。

 そして、第二イザヤが活動した頃から、およそ六百年ほども、時代が降ります。場所はエーゲ海沿岸の町エフェソです。パウロは、この滞在中に、かつて、自らが立ち上げたコリントの教会の信徒にあてて書いた手紙のひとつが、コリントの信徒への手紙一でした。

パウロは、賜物についての考え方を述べていました。「あなたがたはキリストの体であり、また一人ひとりは、その部分です」と教えています。教会の各部分を、パウロは順序立てて、説明しています。最初に、使徒、次に預言者、続いて教師、奇跡を行う者、病気をいやす者、援助する者、管理する者、異言を語る者・・・・と、列挙しています。

そして、31節の最初には、「あなた方はもっと大きな賜物を受けるよう、熱心に努めなさい」と語っています。その、「もっと大きな賜物」が、何であるか、を推測させる言葉が、12:31節の最後に記されています。31節には、「そこで、私は、あなた方に、最高の道を教えます」と書かれていまして、続く13章では、“愛”について語られています。ですからパウロが記した、「もっと大きな賜物」とは、“愛”を構成するような賜物に、違いありません。教会には様々な奉仕がありますが、このような、ひとつひとつの奉仕を横糸で通すような賜物であって、その賜物によって、“愛”が完成するような賜物の事であると考えられます。

パウロは、8節で、愛について語りました。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と言っています。コリントの人々が重視していた“預言”も、“異言”も、“知識”も、やがては廃れるが、“愛”が廃れることは、決してない、と記しています。そして、現在、コリントの人々が大切に思っている、霊的賜物によって与えられる知識は、鏡に映っている世界の間接的な像に過ぎないと、言っています。それは、“誤り”ではありませんが、“明瞭”ではありません。鏡に映ったものは、おぼろげでしかありません。然し、終末の日には、“顔と顔とを合わせるように”、はっきり見る事ことができるのです。「完全なものが来たときには」という言葉は、「神と、顔と顔とを合わせてみる時」を意味しています。“愛”は、究極的に、神と一致することを予想させていまして、今は、恵みによって、わたし達に与えられ、兄弟姉妹たちと分かち合っているのです。信仰と、希望と、愛とは、終末に至るまで存続するものですが、そのうちで、“愛”が最も大いなるものであると、言われています。なぜならば、「愛は、すべてを信じ、すべてを、望む」からです。

ここに、わたしたちは、かつて、イザヤが預言した、「神の思い」と「神の道」の、実現を見ることが出来ます。「人間の思い」や、「人間の道」は、コリントの人々の思いでしかありません。「神の思い」と、「神の道」の表れであります「神の愛」を、わたしたちは、信じ、求め続ける者でありたいと願うのです。

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