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幸いの道

幸いの道
岸 敬雄 神学生

詩編 1 篇 1 〜 6 節 マタイによる福音書 7 章 13〜14 節

本日から待降節・アドベントに入ります。御子イエス・キリストがこの地上においで下さったことを、お祝いするクリスマスを待ちわびる季節です。
心がウキウキするような、一年で一番華やかな季節なのかもしれません。どうして私たちは御子イエス・キリストのご降誕をこの様に嬉しい思いで、待ちわびているのでしょうか。
御子イエス・キリストは、どの様なお方でしょうか、私たちに何をしてくださったのでしょうか。御子イエス・キリストは、私たちの罪の為に十字架におかかりになって下さり、私たちの罪の贖いをしてくださいました。言い換えれば、神様との関係を正しくしてくださり、神様のみの途に行く道を開き、整えてくださったのです。
詩編の第一篇は善の道と悪の道、二つの道が書かれております。善の道を行くものは祝福され、悪の道を行くものは呪われるという、この二つの道の行く者の末が書かれています。

神のみもとへ行く道、この善の道が御子イエス・キリストによって開かれたのです。
詩編の第一篇は、詩編の序文として書かれ、現在置かれている場所、即ち、詩編の一番最初に置かれたのではないかとの考えがあります。そして、詩編全体の共通の内容についてさし示しています。それは、善の道と悪の道、そして、この二つの道の行く者の末であり、善の道を行くものは祝福され、悪の道を行くものは呪われるということです。
マタイによる福音書7章にも二つの道が示されています、命に通じる門は狭く、滅びに通じる門は広く、その道も広々とした道です。

私たちの前に示されているこの二つの道について、詩編第一篇を改めて、見て見ましょう。神の道を歩む人に対する祝福が書かれています。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人の事であります。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らない、共に座らずとは、仲間にならないということを意味します。つまり、神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者の仲間とならないものと言っているのです。私たちは、そのように生きていきたいと私たちも望みます。しかし時として、現在は、祝福より苦難の方が多くあると感じてしまうことがあるかも知れません。しかし、現在の苦難についてパウロはローマの手紙の中で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ロマ書8章18節)と言っています。
パウロがここで言っている、私たちが受ける栄光とは、御子のより贖われたものとして、神の子とされることされることです。

同じローマの信徒への手紙8章の中で、パウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書8章28節)と言っています。神を愛する者たちには、万事が益となるようにと者神様ご自身が働いてくださるというのです。神様が共に居て下さいます。私たちの現在ある苦難など恐れるに足りないのであります。すべてをご支配していらっしゃる神様が共に働いてくださるのですから。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない、詩篇第一篇の作者の詩人も言っています。
神に祝福にあずかっている者に繁栄をもたらす、とも言っているのです。希望を主に託して日々を過ごして行きたいものであります。

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